レポート:鳥取夏至祭2022 #2

6月18日と19日、鳥取市の鳥取城跡の久松公園とわらべ館を舞台に、鳥取夏至祭2022が開かれました。コロナ禍の2年間のオンラインを利用した開催を経て、再び県外パフォーマーの来鳥が実現した今年の夏至祭についてnashinokiが振り返るレポート、続編です(#1のレポートはこちら


おととからだであそぼう!即興音楽とダンスのワークショップ(19日午前)

一夜明けた翌日の午前中には、わらべ館横の芝生広場でパフォーマー全員と一般参加者が参加する「おととからだであそぼう!即興音楽とダンスのワークショップ」の特別編が行われた。このワークショップ(以下、W S)は鳥取夏至祭(以下、夏至祭)の実行委員らによって年間を通じて行われているもので、夏至祭で行われるW Sの特別編は経験豊かなパフォーマーが多いため、あらかじめ決められた指示もないまま、ただ全員がその場にいることから動きが始まっていく。

WSはコロナ対策ということで手指消毒を行い、原則としてマスク着用で行った(子供たちは除く。大人は各自の判断で)

前半、最初はそれぞれが体操のように体を動かす動きから始まり、目に入った人の動きをなんとなく反響させるような形で筆者は体を動かしていく。途中イモムシのような行列ができたり、疲れてたたずんでいると学生たちが踊る輪に手を差し伸べて入れてくれ嬉しくなったり、それであっという間に30分が経って休憩。自由に動くといっても、ダンスに慣れない人間にとっては周囲の空間や他の参加者の動きを感じ体を動かすだけでへとへとになり、30分というのはちょうど良い時間だった。それぞれ木陰でひと休みして水分を補給、噴水の水を浴びたりして、その中でも音を出している人がわずかにいて、信清栄月が一人三味線を奏でていた。またそこから離れたところにはマイアミが一人たたずんでいて、何か難しいことを思考するような動きで、手足をくねらせていた。

後半はそのマイアミの動きがリードするような形でセッションが始まった。マイアミが「~ザウルス」と周りの参加者を恐竜に例えるような言葉を発し、その後「ヒジカタザウルス」と言われたヒジカタは体の中から卵を産むような動作をして、体を冷やすため(?)に入れていた水の入ったペットボトルが卵のように出てきた。そこからその生まれたものを参加者でパスするラグビーが始まったが、最後はそれを「赤丸急上昇」の丸山陽子がヒジカタの体の中に押し戻した。その動作は、理由はわからなかったが周囲に妙な説得力をもち、言葉の掛け合いがひと段落したところで、突然芝生広場全体に力強いサックスの音が鳴り響いた。赤田が鳴らしたその音は、マイアミの言葉を起点としたセッションに区切りをつけるようでもあり、またそれまでの言葉によって動かされたセッションを、サックスの音で受け取るようにも感じられた。

ヒジカタハルミと産み落とされた卵のような氷入りペットボトル
そこから卵回しゲームがスタート
音楽とダンスは各自のタイミングで入れ替わる。疲れたら日陰で演奏など

通常私たちはコミュニケーションの中で言葉を特権的に扱っていて(言葉に表された意味によって他者とのやり取りの最終的な判断を行なっているという意味で)、日常生活の中ではそのことに疑いをもたないが、この言葉から音への受け渡しは、その二つが同等というか、同じ地平にあるというメッセージを投げかけていた。言葉はこういう風にも受け取れる、受け取ってもいいよね、と言葉を身体の音や動きといった地点から捉え直すよう訴えかけているように感じられ、既存のコミュニケーションの地平に別の場所から空気が吹き込まれる風通しのよさがあった。逆に言えば、(詩人であるマイアミの言葉はそのようなものとは異なる方向を志向しているが)現代に生きる私たちは溢れる言葉に抑圧されていて、このやりとりはそこからの解放を示唆するようにも感じられた。後半もそうして即興が動き続いていき、自然に動きが止まったと思ったらちょうど12時の鐘が鳴り、WSは終了した。

 

パフォーマンスと日常の間

夏至祭の中で、WSでのマイアミと赤田のやりとりは筆者に大きな印象を残したが、もう一つ鮮明に覚えているのは、久松山ツアーでお城跡を登って進んでいるとき、観光ボランティアの竹内さんと共に先頭を歩いていた木野が、おもむろに夏至祭に関する問い合わせの電話に出たことだった。それは些細なことといえば些細なことなのだが、筆者には不思議な風通しのよさを感じさせた。

通常パフォーマンスといえば、パフォーマーと観客は日常生活とは別の世界に入り、だからパフォーマーの中心にいる木野がツアー中に電話に出るのは、通常のルールを逸した振る舞いともいえるのだが、木野がそれを行うことで、参加者は少し日常の世界の方に引き戻される。電話が終わると木野は再びガイドに戻り、ツアーは続いていく。ここではパフォーマーである木野が、現状のツアー参加者と、新たに連絡をしてきた人との間で、その両者との関係性を感じながら受け取り、双方に対して真摯に自身のあり方を変化させうる、そのような動的な可能性を示しているように感じられた。

木野は今年の夏至祭のステイトメントの中でこう述べている。

2017年(初回です)、パレット鳥取でダンサーが踊っていたら通りがかりのご婦人がコーラをくれました。突然です。向かいのスーパー(当時はコンビニではなかった)で買ってきてくださった様子。ダンサーは動揺しながらもそれを飲み、交流が始まりました。コーラが欲しいと言うのではなく、観客もまた参加者であり、普通の生活の延長上にあるものとして受け止めてみてください。〔中略〕音楽もダンスも、呼吸をしたりご飯を食べるように日々の営みなのです。(1)

これはパフォーマーであるダンサーと、観客との間に生じた交流の流れを、双方が境界の別の側にいる者としてやり過ごすのではなく、それぞれが行なった投げかけを受け取り合うことで成立したやりとりだった。それはコーラを渡した観客の女性にも、ダンサーの側にとっても、互いの世界を拡張する経験だっただろう。

今年の鳥取城跡ツアーで木野が電話を取った際筆者が感じたことも、そこから延長する感覚だった。木野はパフォーマーであり、しかしダンサーとして観客と異なる位置にいるのではなく、そのまま一人の生活者としてそこにある。それはツアーへの他の参加者(観客)と同じ地平に立つというメッセージであり、パフォーマンスの時間は外の世界と別の出来事ではないのだ。また木野が直接参加者(観客)と問い合わせのやりとりをしているという意味で、夏至祭が手作り(DIY)で成り立っていることをも感じさせた。電話をかけてきた人の存在は、パフォーマンスと異なる領域として区別されるのではなく、パフォーマンスそのものを変化させるという意味で、個々のセッションにとどまらない夏至祭の枠組み全体が、世界に存在するものたちと境界を定めることなく関係しようとしていると感じられ(2)、パフォーマンスとそれを支える「裏方」の作業も境界を超えて交ざり合っていくという意味で、上で述べたDIYの印象が生じていたのかもしれない。鳥取城跡の立体的な構造を肌で感じながら、夏至祭が成り立つ構造が浮き上がるようで、印象深い経験だった。

境界を越える運動

夏至祭において、パフォーマーは周囲の環境を感じながら、感じたものを受け取り反応を返すことで、どこにいてもその場を自らパフォーマンスの舞台とすることができる。何らかの表現活動は、多かれ少なかれ現実に働きかけようとする傾きをもつが、夏至祭のパフォーマンスはそれをとても直接的に行っており、つまり現実を受け取って働きかけることが夏至祭の表現そのものであり、周囲の現実を受け取ることからはじめることで可塑的で、誰もがそこに関わっていける可能性を開く。(3)

鳥取城跡ツアーの最後、三階櫓跡での全員によるセッションでは、観客の中にはセッションに参加する人もいる一方、それを眺めているだけの人もいて、もちろんセッションに参加するかどうかは観客の自由なのだが、パフォーマーの側にいると、その人たちにも中に入ってきてほしい、入ってきたらよいのにという気持ちを筆者は抱いた。これは昨年までのようにただ観客として参加していただけなら考えなかったことだろう。こう思ったのは夏至祭の即興パフォーマンスの魅力が、境界を越える力にあると感じていたからかもしれない。

パフォーマーとパフォーマーの間だけでなく、対面とオンラインの間、人と環境の間、パフォーマーと観客の間、言葉と音の間、パフォーマンスと裏方の間、等々。即興パフォーマンスのセッションには、それらを超え、関係させる力がある。関係づけられたものの間には、一時的であれ、一つの共同体が成立する。そのような動きに魅力を感じるのは、私たち一人一人が存在としてやはり孤独だからなのかもしれない。そして人間社会によって作られた様々な境界を越えることで、誰かと共にあるということも含みながら、社会的な役割や制度による境界から自由になり、存在として生きることそのものの姿が、浮かび上がってくるからかもしれない。

「赤丸急上昇」の赤松美智代は、夏至祭終了後の関係者による振り返りの席で、「夏至祭には真実があった、嘘をつかなくてよかった」と語っていた。互いの呼びかけが真摯で切実であるとき、越えられそうになかった既存の境界を、越えようとする力が生まれる。そういう動きを、これからも夏至祭でもっと見たいし、この世界でもっと見ていきたい。鳥取夏至祭において生じているのは、即興パフォーマンスによって様々な境界を越える運動かもしれないと、今年パフォーマーとして夏至祭に参加した筆者には感じられている。

 

(続く)

 

 

写真:bozzo(7、8枚目)
田中良子(上記以外)

 


1.「鳥取夏至祭2022 おと、からだ、まちとの出会い」参加者用パンフレット.
2.「チームラボ」の猪子寿之は、NHKのインタビューで、都市にいて他者がときに邪魔に感じられてしまうのは、他者が世界に影響せず、都市の環境を変化させることがないからだと述べており(「チームラボ猪子寿之さんが語る「究極のエンターテインメント」」NHKウェブサイト )、夏至祭における境界を越える即興セッションの美しさにもこの点が関係しているように思われる。
3.誰もが平等に参加できるという点で、夏至祭は実態としても伝統的な祭りに近いと言える。木野は限界芸術論をもとにまとめた修士論文(筑波大学社会人大学院、2016)の実践例として鳥取夏至祭を始めたといい、その研究を元にした「コミュニティダンスの歴史的原点を求めて」(鳥取大学紀要、2017年)では柳田國男の祭儀と祭礼を分ける議論や、やミハイル・バフチンのカーニバル論を参照しながら詳しく考察している。夏至祭はバフチンの言う「カーニバル」ほど非日常的ではなく、日常をひっくり返すというより日常の見方を変化させるよう促しているように筆者には感じられる。

鳥取夏至祭2022
https://tottori-geshisai.jimdo.com/

お問い合わせ先
鳥取夏至祭実行委員会
geshisai2022@gmail.com



ライター

nashinoki

1983年、鳥取市河原町出身。鳥取、京都、水俣といった複数の土地を行き来しながら、他者や風景とのかかわりの中で、時にその表面の奥にのぞく哲学的なモチーフに惹かれ、言葉にすることで考えている。