吉田恭大(歌人/舞台制作者)#1
与えられた条件の下で「何をするか」を考える
2019年に第一歌集『光と私語』を刊行し、歌壇に新しい風を吹き入れた吉田恭大さん。歌人としての活動の傍ら、東京の劇場での舞台制作にも携わっています。短歌と演劇という異なるジャンルに親しんできた背景を踏まえて、ご自身の「ことばをかたちづくるもの」についてお話を伺いました。
※今回のインタビューは、鳥取大学地域学部・佐々木研究室とコーディネーターの蔵多優美さんによる共同企画「ことばの再発明ー鳥取で「つくる」人のためのセルフマネジメント講座ー(令和2年度 文化庁 大学における文化芸術推進事業採択「地域資源を顕在化させるアートマネジメント人材育成事業」/令和2年度 鳥取大学地域学部学部長経費)」の成果発表の場として設定されたフォーラム「鳥取で出会う表現とことば」第2回(2020年12月14日)で語られたことを元に再構成しています。フォーラム担当の磯崎つばさ、中村友紀、ナカヤマサオリ、水田美世の4名が聞き手です。
磯崎:吉田さんは短歌と演劇の両方をされているということで、私と中村さんは吉田さんのご自身のことばが、短歌という形式を通して世に送り出されているということに関心を持ちました。なぜ戯曲(1)ではなく、短歌なのかという単純な問いなんですけれども。
吉田:私は戯曲を書いたことって実はほとんど無くて。今、東京都内の公共劇場で企画や制作の仕事をしているんですけれども、学生の頃、もっと直接的に作品創作に関わっていた時も、例えば何か原作とか、元になるものがあったり、あるいは依頼があったりして、そこからテキストを立ち上げるということがほとんどでした。
自分の中に何か訴えたいことがあるとか、伝えたいテーマや、強い感情があってそのために何か表現する、というタイプのクリエーションがそもそもできなくて。なので、自分の作品としての戯曲は書かなかったのかなと思います。
戯曲もだし、詩もそうなんですけど、書き方が難しいんですよね。人によってかなり記述方法や文体が違って。それでいくと、短歌の場合、最低限31音っていうルールがあれば、あとはなんとかなるので、ある意味でとっつきやすい。演劇と違ってひとりでも作れるし、条件や制約があらかじめあって、その上でやり方を考えるというのが性に合っていたのだと思います。あとは、見たままを言葉にするだけである程度形になるというのも、短歌のいいところですね。そのスタンスが性に合ったので、もう15年くらいになりますけど、ずっと短歌を作ってます。
中村:そもそも戯曲の定義が難しいという話もありますが、例えば脚本のようなものではなくて、短歌を戯曲にしたりとか、そういったものが世の中にはたくさん発表されていると思うんですけど、吉田さんがされていたことの中にも、短歌を演劇で上演されているものはあるとお聞きしたんですが。
吉田:そうですね、これも作り方の話になってしまうと思うんですけれども。上演のためのテキストっていう意味で言えば、別に短歌でも俳句でも、なんでも使えると思うんですよね。それなりの演出を考えることができれば、割となんでもできる。「戯曲」と言われて一般的に想像しやすいもの……いわゆるト書きがあってセリフがあって……みたいな形式じゃない戯曲だっていくらでもありますし。
戯曲としての短歌連作……朗読にしてみたり映像作品にしてみたり、というような実作もこれまで何度か試しているんですけど、もう少し色々出来る余地はありそうですね。タイミングがあればまた作りたいと思っています。
磯崎:私も実は短歌をやっているのですが、歌会なんかに自分の歌を出した時に、自分が作った時の思いと全く違う解釈をされるととても楽しい。自分と全く離れていくのが楽しくて。そういったことは戯曲を扱う時に経験されたことはありますか。
吉田:言葉だけで上演をコントロールすることは、本質的に不可能なので……たとえば、舞台では、言葉に演出がついて、役者の身体を経て出力されるものだとして、その過程でテキストの作者が意図したものも意図しなかったものも当然付与されてきますよね。
短歌についても、読者に手渡したあと、読まれてから先の解釈って先方に委ねるしかないものだと基本的に思います。
読みと解釈に関しては本来、正解も間違いもないんですけど。歌会での個人的な心がけとしては、人の作品を読むときも、自分の作品を読んでもらうときも、なるべくより面白がれる方向に議論が転がればいいなと思いながら、参加したり運営しています。
磯崎:自分の手を離れた時に、読み手の人に訴えたいことが大きくずれていくのが、私は短歌で一番面白いことかなと思っていますが、戯曲において作り手は、それはあまり意図しないのではないか。その意を汲もうとしなければならないという強制力というものが、戯曲にはあるのではないかと考えているのですが。
吉田:強制力、と言えるか分かりませんが……日本では、劇団主宰として劇作家と演出家を兼ねているケースが多いので、演出の部分まである程度コントロール下に置くことを前提に戯曲を書く人が多いんじゃないでしょうか。その形式だと、そもそも劇作も演出も同一人物なので「解釈のズレ」みたいな話は出にくいですよね。それは良し悪しの話ではないし、脚本家と演出家を分業した方が面白くなるケースもいくらでもあるので、間に一工程挟むかどうかの違いだと思います。
中村:歌を作ることと、送り出した後にどうなるか、歌集になったりとか、演劇になったりとかいろんなアウトプットの仕方があると思いますが、どちらが好きですか。
吉田:読んでもらった方が楽しいですね。自分で作っている限りでは、ある程度自分で考えていることからはぐれることができないので。本にしてもらうとか、あるいは上演に使ってもらうとか、あるいは歌会で読んでもらうっていう風に、出力されたものを見るのは、一番最初の観客になれますし、ありがたいなって思うことが多いです。それは、演劇作品でアーティストさんに仕事を依頼する時にも同じことを考えます。
〈#2へ続く〉
聞き手:中村友紀・磯崎つばさ
写真:水田美世
1.演劇 の上演のために執筆された 脚本 や、上演台本のかたちで執筆された 文学作品 。
吉田恭大 / Yasuhiro Yoshida
1989年鳥取市生まれ。中学生の頃から作歌をはじめる。2007年より塔短歌会所属。早稲田大学文学部在学中は、早稲田短歌会、劇団森に所属。2017年4月より北赤羽歌会を運営。2019年、第一歌集『光と私語』をいぬのせなか座より刊行。同年より、一箱書店・ウェブサイト「うたとポルスカ」を運営。2020年より、日本海テレビ「いっちゃん歌会」選者。