レポート:トットツアーvol.1「湖山池阿弥陀堂」

普段なかなか一人では行くことが出来ない場所にみんなで出かけ、あれこれと話も聞いてみようというトットのツアー。先日、5月12日(日)に第一回目を開催しました。出かけた場所は、湖山池に面する阿弥陀堂。その様子を紹介します。


湖山池阿弥陀堂は、鳥取で民藝運動を展開した吉田璋也(1898−1972)により、鳥取民藝美術館の別館として湖山池のほとりに建てられたお堂。展望室のほか二部屋の茶室、水屋があり、外観も周辺の景色と調和するよう作られている。トットのツアー当日は、鳥取民藝美術館の木谷清人さんに吉田璋也と阿弥陀堂に関するお話をうかがい、そのあと鳥取市内のお店・砂丘屋のお弁当を食べながら、阿弥陀堂の空間とそこからの景色を楽しんだ。以下、木谷さんによる説明を紹介していこう。

吉田璋也は、1964(昭和39)年に鳥取民藝美術館の別館として、阿弥陀堂を創建した(1)。昭和初期から始まった吉田の民藝運動は、民藝運動の創始者・柳宗悦の思想の影響を受けたもので、柳は近代以前に無名の職工たちが作りだした日常の雑器の中に美を見出していた。吉田による新作民藝運動は、柳が見出したような美を現代の日常生活にとり入れるため、新たに企画・デザイン・生産をプロデュースし、継承していこうとするものだった。この運動は、その精神を衣食住すべての領域であらわそうとする暮らしの改革運動でもあり、その中でも最後に作られた建築が、この阿弥陀堂だった。

1964年といえば、ちょうど前回の東京オリンピックの年にあたる。日本社会は高度経済成長により、当時大きく姿を変えつつあった。経済的価値を優先する開発により、これまでの自然景観が失われてしまうことを恐れた吉田は、景観の保護も民藝美術館の役割の一つと考え、湖山池の景観が最も美しく見える場所に、阿弥陀堂を作ることにした(2)。当時は湖山池の青島にも、縄文や弥生の遺跡を壊し遊園地を作る計画があった。文献から江戸時代の文人墨客が湖山池に庵をむすんでいたことを知った吉田は、その場所を探して歩き、津生島(つぶしま)がよく見えるこの場所を見つけた。そこから小高い山に登ってみるととても眺めがよく、湖山池で行われてきた独特の伝統漁法、石がま漁(3)の景色も眺めることができた。こうして吉田は、その場所に阿弥陀堂を立てることにする(4)

木谷さん(左)が指す写真の右手奥に津生島が見える

お堂は湖山池の北岸、東に扇ノ山、西には鷲峰山と、中国山地の山々が眺められる場所に立ち、湖面からは15mの高さに位置している。この高さからはちょうど湖面全体の変化をよく見ることができ、雨が降った時には場所によって雨足が異なり、様々な水面の模様や色があらわれる(5)。正面からは津生島、その背後には青島と団子島がのぞめ、吉田はこの三島をそれぞれ、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩に見立てたという。このような仏教的世界観は、民藝の思想と深い関係をもつ。民藝の思想は「自力」ではなく、美しいものを作ろうとしないでも、自然と美しいものができてしまう「他力」を重要と考える。やきものであれば、陶工はその地の土を用いて無心になって器を作るから、自然とその場所にしかない美しさが表れ、装飾性は少なく、歴史の時間を経た健全な美しさが実現される。このような考えは、南無阿弥陀仏と唱えるだけで成仏できるとする、浄土真宗の教義に見られる(6)

阿弥陀堂の建築の形にも、吉田の精神は生きている。お堂の材は栗と欅で、民藝家具の製作も行った辰巳木工がすべて寄付して製作された。また和紙の使用が減ってきている状況を受け、吉田は和紙による茶室を考案し、その壁紙は後に大因州製紙から発売された。さらに、通常の阿弥陀堂の形は正八面形だが、湖山池の阿弥陀堂は八面形でも正面が広く、両側の面は少し狭い。英国のベイウィンドウにも似ており、正面に津生島がのぞめるようになっている。ふつう日本的美意識には左右非対称で正面を外す傾向があるが、吉田は戦時中軍医として中国に渡り、新作民藝運動を展開していたこともあり、大陸文化にある正面性の美しさを身につけていた。

民藝運動の作家として活躍したバーナード・リーチ、濱田庄司も阿弥陀堂を訪れ、リーチは3枚のスケッチを残している

木谷さんのお話をうかがった後は、お堂のなかで、みんなでお弁当を広げ、その後は阿弥陀堂に備えられている器でアイスコーヒーを飲んだ。器はもちろん民藝陶器。器に氷を入れてそこにコーヒーを注ぐと、市販のアイスコーヒーが、ずいぶん特別なものに感じられた。

ツアーの参加者には、外国から鳥取にやってきた人、最近東京から引っ越してきた人、それにこの辺りで生まれ育ち現在も暮らしている人など、様々な出身の人がいた。なかでも近隣から参加した男性は、小さな頃近所で遊んでいる時から、ずっとこの場所が気になっていたが、入ったことがなかったという。その思いは今回、不意に数十年越しで叶えられることになった。吉田璋也という人は、筆者が生まれた時にはすでに亡くなっていて、その全貌も掴みきれないほど多才な人なので遠い存在という気がしていたけれど、男性の話を聞いて、彼が阿弥陀堂を眺めながら過ごしてきた時間に、この景観を未来へ受け渡そうとした吉田の願いが、ほのかに浮かび上がってくる気がした。そう思うとなんだか、あの日はみんな、阿弥陀堂で吉田璋也さんにもてなしてもらったのだ、という風にも思えてきた。吉田は陶芸家のバーナード・リーチや濱田庄司など、鳥取民藝美術館に来客があるとここへ招待し、晩年は、景色を見ながら、日永過ごしていたという。

阿弥陀堂は2017(平成29)年に国の登録有形文化財に指定され、同年には改修工事も行われた。吉田は文化財の保存だけでなく、その継承のためには観光に利用することも必要だと考えていたという。湖山池阿弥陀堂は、現在鳥取民藝美術館へ予約の上、誰でも自由に利用することができる。鳥取の人でもこの角度から見た湖山池の美しさを、知らない人は多いのではないだろうか。単に美しい器や道具を残すだけではない、民藝運動が目指した広がりを感じさせる風景を、ぜひ一度味わいに訪れてみてほしい。

正面に津生島、その背後に青島と団子島がのぞめ、吉田はこの三島を阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩に見立てた

協力:木谷清人(鳥取民藝美術館常務理事)
参考:吉田璋也「阿弥陀堂を建てる」(日本民藝協会『民芸』146号、1965年、所収)/ 木谷清人、北田英治、木下建築研究所「吉田璋也の建築の原点 鳥取民藝運動の軌跡」(建築思潮研究所編『住宅建築』2016年4月号抜刷)
写真:田中良子


1.鳥取民藝美術館は、1949(昭和24)年に開館している。
2.吉田は同志らと1954(昭和29)年に鳥取文化財協会をつくり、阿弥陀堂の他にも鳥取砂丘、仁風閣等の景観や古建築を保護する運動を行った。
3.湖山池で江戸時代前期から行われていたとされる伝統的な漁法で、石がまと呼ばれる人工漁礁を用いる。「一つの石がまで蔵一つ」と言われるほどの魚が獲れたが、1943(昭和18)年の鳥取大震災でほとんどの石がまが崩れてしまう。当時はまだ修理できる職人がいたが、後継者不足により、また近年湖山池の塩分濃度の上昇と下水の流入による富栄養化によって魚が減ったことにより、現在残っている石がまは4機、そのうち昨年の漁で使用されたのは1機だけだという。石がま漁は鳥取県の無形民俗文化財に指定されている。
4.文献にあった江戸時代の庵「忘機亭」は、湖山村の方にあったことが後に判明している。
5.木谷さんによれば、この高さは柳宗悦が千葉の我孫子に住んでいた時、手賀沼のほとりに建てた自宅の書斎の高さと同じだという。「吉田はその風景から影響を受けたとも考えられなくはない」とのことだった。
6.他力の考え方と民藝運動の関係については、柳宗悦「美の法門」(『民藝四十年』岩波文庫、所収)等を参照。


湖山池阿弥陀堂
問合せ・利用申し込み:鳥取民藝美術館 0857-26-2367(水曜休館日)

ライター

nashinoki

1983年、鳥取市河原町出身。鳥取、京都、水俣といった複数の土地を行き来しながら、他者や風景とのかかわりの中で、時にその表面の奥にのぞく哲学的なモチーフに惹かれ、言葉にすることで考えている。