森 達也(映画監督)#2
そもそもメディアは人を傷つける。その覚悟がなければやるべきではない

昨年11月に3年ぶりとなるドキュメンタリー映画『i -新聞記者ドキュメント-』(1)を公開した森達也さん。よなご映像フェスティバル(2)のゲスト審査員として来鳥したタイミングでお話を伺いました。インタビュアーはよなご映像フェスティバル実行委員の水野耕一さん、兼ねてから森さんの作品に惹かれてきたという踊子の木野彩子さん。話はドキュメンタリーを観る側のリテラシーの問題、劇場で映画を観る意味などへ広がりました。


水野:ドキュメンタリー映画『A2完全版』(3)を7月に東京で上映された時、トークで森さんは「表現することは誰かを傷つけることだ」と話しておられましたね。

:生きる上で他の生き物の命を全く害さないで生きることは無理ですよね。肉食やめてベジタリアンにとかそういうレベルではなく、この瞬間にも数歩歩いただけで何千万、何億という微生物が死んでいくわけです。いちいちそれを気にしていたら生きていけないけど、生きることの後ろめたさみたいな意識をもう少し持ったほうがいいのでは、と時おり思います。これをテーマにした作品がテレビ時代の『1999年のよだかの星』(4)です。

特にメディアは、誰かや何かを撮って多くの人に見せるので、その過程で全く予期しなかったことが起きる。テレビ業界ではよく言われる話があって、これは都市伝説みたいなフェイクかもしれないけれど、パリーグの野球中継でたまたま観客を映しこんだら不倫関係がバレてしまい、女性の方が自殺したというような話があったりします。

被写体に対しての加害性だけではなく、誰かを撮ったら周囲は映り込みますし。もしかしたら撮られたくない人が写ってしまうかもしれない。さらにこれは映像だけではない。取材とはそういうものです。特にこの仕事をやるからにはその要素が強くなるので、意識しなければいけないと思います。そもそもメディアは人を傷つける。特に現実の一部を切り取るドキュメンタリーは。その覚悟がなければやるべきではない。

木野:それでも表現したいものがあるからこそ作るということですよね。見せないといけないものがある。

:うーん。見せないといけないという意識も否定しないけれど、僕が見て欲しいんです。僕のエゴなんです。使命感じゃない。この社会よくしたいとか、なんか人に知らしめたいとか。数パーセントあるかもしれないけれど、根底にあるのはこんなの作ったよ、見て見てっていう。それは、僕は自分のエゴを優先している。それはとっても後ろめたい。

木野:これまでの作品と比べて、『i -新聞記者ドキュメント-』では自身の意見というものが取り上げられているように思います。

:これまでも出してきたけれど、出し方の違いで。世界平和を訴えるために間接話法的に行ければその方が深く突き刺さるからってそういう手法を取ってきたんですけれど、今回はメディアっていうストレートなテーマで、これまでの『A』(3)や『FAKE』(5)もメディアはテーマの一つだったけれど、特にメディアを直接扱うというのが初めてだったので、表現もやり方を変えようとしました。テロップやマルチの分割、アニメなど、これまでやってなかったことをやってみています。自分で違和感はないですよ。あくまでも手法ですから。

水野:英語だと一人称は「I」ですが、日本語だと私、ぼく、俺、様々にありますよね。それらが全部漢字ひらがなカタカナとあります。映像の場合の主語って考えたりしますか?

:テレビと映画ってかなり違いますよね。テレビって集団で分業しているから一人称になりにくい。報道番組でも「そこで我々はモスクワへ飛んだ」とかいうでしょう。飛んだのはナレーターじゃないだろうって思うんだけど、そこでディレクター自身が一人称単数で語るのはできないわけですよね。『A』を撮る過程で、映像は主観的なんだと気がついて、そのあとは迷わず映像は一人称単数の主語を持って撮っていますね。私が僕がと叫ぶわけではなく、でもしっかり自分を出そうと思っています。というか映像はすべて一人称なんです。それを隠すことは止めたという感じです。

新聞の記事もそうです。やっと最近は署名記事が増えてきてはいるけれど、記事では絶対に私とか僕を主語にはしていませんよね。

水野:確かに新聞は、社説は別にして、記事そのものには主語がないですね。

:そもそも官邸内の記者会見というのは、記者会が官邸の場所を借りて主催している、という大前提がありますよね。つまり、論理的には、記者会がOKすれば入れるはずなんですよね。記者会が審査をして官邸に伝えるというのはわかるのですが、現行のルールでは、まず初めに官邸のOKをもらわなければいけないようになっている。その意味がわからなくて。さらに官邸の審査というのが、映画でも説明してますけど、直近で2回官邸もしくは総理に関する記事をしかるべくメディアに記事として発表していることと、推薦を3人の方からもらうこと、それで審査の段階に入ることができるということになっている。でも後から聞いたんだけれどクリアしても審査の結果は来ないし、何年も経ってからやっぱりダメでしたという場合が多いわけです。要は入れたくないということなんですよね。

水野:同調圧力というのが『A』から森さんがテーマとされてきたことなのかなと思います。例えば『A』では荒木広報副部長やオウム全体をマスコミが悪者として一方的に描こうとしていたり。特に荒木さんはおとなしい人だからか、質問を矢継ぎ早に出して彼が困ったり沈黙したりする様子を映し出し、それに対して視聴者が喝采を送り溜飲を下げるという状況があったと思います。ところが映画を見ると、荒木さんは誠実な好青年で、言葉に詰まって見えるところも、実は彼が自分の中で自分の言葉を探していたからだということがよくわかります。マスコミはとにかくオウムをバッシングすることが使命だと思っていて-そうしないと視聴率が稼げないからですが-、森さんはさらにその奥にあるもの、つまりそれを欲している者は誰か、それを望んでいる者は誰か、ほかならぬ視聴者自身ではないか、と指摘されているのではないでしょうか。それは佐村河内さんを取材した『FAKE』の時も同じだと思います。

:『A』を撮る過程で僕はテレビの制作会社にいたんですが、制作中止を指示されたのに撮り続けたことで会社をクビになり、テレビ業界からも干されて一人になってしまいました。だからその後は一人で撮り続けた。オウムの人間でも、会社の人間でも、一般市民でもない、いったい自分のポジションはなんだろうと思いながら。そのとき感じたのは、メディアだけではなく、警察も、市民社会も含めて、“組織”なんです。組織共同体。市民も1人じゃない。徒党を組んでデモを行う。会社や学校や町内会。人は必ず組織共同体に帰属している。その帰結として、一人一人は優しいままなのに、集団になると変わっちゃう。それをさんざん見たんですね。

そもそもオウムも同じです。非常に閉鎖的な宗教集団。なぜあんな善良な人たちが、凶悪な犯罪を行ったのか。一人一人は優しいんだけれど、集団になった時に大きな間違いを犯してしまうというモチーフは、僕の中ではずっと持続しているのかもしれない。

:でも最近アメリカはね、NYタイムスやワシントンポストなどで「I」が主語になる記事が増えてきたと聞きます。アメリカすごいなと思いましたけれど。

木野:これからそうなっていくのでしょうか?

:日本はどうかな。アメリカはそうでしょうけどね。

本来映像も記事も一人称単数のはずなんです。複数で書いている文章なんてありえないし、複数で撮ってる映像なんてありえない。複数を強調するのは客観性や公平性を主張するため。リスクヘッジもあるかな。でもそれは虚妄だから。その辺は見る側や読む側もリテラシーを持たないと。だからあえて著書に『ドキュメンタリーは嘘をつく』(6)ってタイトルを付けたんですね。「嘘をつく」っていうのはFAKEということではなく、表現は全て嘘なんだっていう意味です。でも森はドキュメンタリーのやらせを肯定したとか解釈する人がいるんだよね。タイトルじゃなくて中身を読めと言いたい。あれは出版社がつけたタイトルで、僕も最初は抵抗があったんだけれど、そのくらいインパクトがあったほうがいいかと。

木野:フェイクドキュメンタリーという言葉がありますが、完全に嘘にしちゃうとどうなのかなと思います。完全に嘘をつき通してしまうとただのうそですよね。虚構の部分と現実の世界を織り交ぜるということには興味がありますか?

:興味はありますよ。今虚構と現実とおっしゃったけれど、現実なんて撮れないんです。カメラがある時点で。カメラによって変質した現実になるわけです。ここにもしカメラがあったら身構えたり、服を変えたり、話すことも変わってしまう。そういう意味では常にフェイクなんだっていう。でももちろんやらせや仕込みとは違うんです、それを織り交ぜるというのはアリかもしれない。すべて仕込みとなっていくとドラマですよね。

黒沢清監督は「たまに自分は役者にセリフを与えてどう言うかというドキュメンタリーをとっているような気がする」って言ったらしい。なるほどと思ったけれど、どこからがドラマでどこからがドキュメンタリーという線は引けない。そもそも映像ってそういう表現なんだと観る方が意識を持ったほうがいい。リテラシーとして。これだけ映像やメディアが進化したのに、観たり読んだりする側が初心(うぶ)すぎるなと感じているので。いまはネット時代になっていますから。CGとかプロでも見分けつかないほど技術は上がっています。それも含めて、映像は虚実織り交ざっているという意識を持っておかないと危ないですよ。

木野:映画祭2日間ご参加いただいて、いかがでしたか?

:この映画祭が10年続いているので、根付いているんだなと。それは1回2回じゃなくて、しかも自分の作品を見せに来るというのが根付いているのだなと実感しました。コンペ部門の方も盛り上がっていたし。映画館は米子市に1つもないんですよね?

同じくゲスト審査員のかわなかのぶひろさんとのトークの様子。よなご映像フェスティバル2019にて

木野:隣村の日吉津に1つシネコンがあります。鳥取県には3つしか映画館がありません。そんな中で個人の人たちが一生懸命に映画を広める活動をしています。

:もちろん映画好きですけれど、僕はきっと映画館が好きなんです。大きなスクリーンで見て、知らない人が周囲にいっぱいいて、暗がりで一点をじっと見つめて、誰かのクスクスや微かな嗚咽みたいな声が聞こえる、あの空間が好きなんです。やっぱり劇場というか。パソコンやスマホとかではあまりみて欲しくないし。

今年は日本の映画の興行成績過去最高なんだそうです。でもランキングを観るとトップ10のうち9本がアニメだとか。僕も子どもの頃はアニメ映画好きで観に行きましたけど、もうちょっと大人が見るべき映画を大人が見るようになるといいなと思うんですよね。韓国とかアメリカとかは大人が見にいく回数がはるかに多いので、そうするとやっぱりいい映画ができていくんですよね。

木野:時間や感動を共有する場所が映画館や劇場の良さだと思いますけど、もっと幅広い表現が享受できて、さまざまに議論していく場になっていくことで、社会の柔軟性や豊かさが作られていくと思うんですよね。でもそういう場が少なくなっている危機感はありますよね。 ダンスでもいろんな表現があるはずなのに、テレビで芸能人が行うエンターテイメントとしてのダンスしかイメージできない人が多い。もちろんそういう姿に憧れてダンスを志す人が現れていくのは良いことだと思うのですが、多能な表現を知ってもらうためには、まだまだやらなければいけないことがあると感じます。

:日本は世界で一番ベストセラーが生まれやすい国だそうです。誰かが行くから私も行くとか。一極集中、付和雷同型というか。売れてるものばかりに皆が群がるという現象が起きてしまう。対して、韓国の映画は面白いしクオリティがすごく高いんですが、その要因のひとつは映画の鑑賞人口が日本よりもずっと多いからです。もともとの人口は日本の半分もいないのに。羨ましいです。この国で本気で映画を作ろうと思うと、そういう「観てくれる人たちが圧倒的に少ない」という壁にぶつかります。だからアイドルを起用したり、ドラマやアニメの映画化ばかりが多くなる。

木野:大衆にウケるような作品にするということが必要になってしまうんですね。私は実はコンペティションという考え方があまり好きではなくて、優劣をつけるということがどうしてもできないんですよね。

:それはよくわかります。民放連が主催するコンペティションで呼ばれたりもするのですが、その時に講評でいうのは「順列は僕が選んだけれどドキュメンタリーはその人の生き方が現れている。この人がこの人より優れているなんていえないし、無理やりつけた順位です。だからあまりこれを気にしないで、むしろこうやってテレビ関係者が局を超えて集まっているのだから、同じもの見てみんなでディスカッションしたり、名刺交換でもいいし、そのことに意味があると思うんだ。便宜上賞を出すけれど、それはあまり意味がない」ということです。

水野:賞それ自体ではなく、映像表現について話す場、考える場が生まれることが大事なのですね。よなご映像フェスティバルはいわゆる映画祭というよりは、ビデオアート、アニメーション、ドキュメンタリー、実験映画等を含めて映像とは何かを追求していくことを目的としています。多様な表現が生まれる場としてこの映像フェスティバルができることを続けていければと思います。

:まずは観る場を、観せる場を増やして欲しいですね。映画館が少ないのであれば、民間の人たちが頑張るしかない。よなご映像フェスティバルをさらに盛り上げていただけたらと願います。

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取材日:2019年12月16日
写真:福岡洋、よなご映像フェスティバル実行委員会、nashinoki
構成:水田美世


1.よなご映像フェスティバル:今年で12回目の実験映画のフェスティバル。毎年一般公募作品のコンペティションを開催しており、今年は23作品が入選、上映された。今年は特に「ドキュメンタリーは嘘をつく?」を副題としてドキュメンタリー特集が組まれ、森達也監督の他、かわなかのぶひろ監督や地元で活躍するドキュメンタリー作家などが幅広く紹介された。
2.『iー新聞記者ドキュメント』:2019年11月に公開されたばかりの森達也監督の最新作。東京新聞望月衣塑子記者に密着取材を行ったもの。
3.『A』:森達也監督、1998年制作。オウム真理教の荒木浩広報副部長を中心に取材した作品。続編に『A2』(2001、再編集がなされ2016年完全版が公開される)がある。よなご映像フェスティバルではプレイベントとして上映。その後『A3』は映画ではなくノンフィクションとして2010年に出版されたが、「オウムによって激しく変化した日本社会」について気づいて欲しいと2019年ウェブ上にて無料公開される。(現在は終了)
4.『1999年のよだかの星』:森達也監督、1999年制作。フジテレビ+グッドカンパニーによるテレビ番組。宮沢賢治『よだかの星』をモチーフに、動物実験の様子、動物愛護団体、最先端医療の現場を取材、他の生命を犠牲にすることで成り立っている人間の生の意味を視聴者に問いかける。
5.『FAKE』:森達也監督、2016年制作。佐村河内守氏の「ゴーストライター」騒動をもとに取材、その素顔に迫ろうとした作品。よなご映像フェスティバルではプレイベントとして上映。
6.『ドキュメンタリーは嘘をつく』:森監督自らの制作体験を踏まえて展開するドキュメンタリー論。表現行為としての危うさと魅力と業の深さを考察する。草思社から2005年出版。


森達也 / Tatsuya Mori
1956年広島生まれ。ドキュメンタリー監督・作家・明治大学特任教授。テレビ制作会社勤務後フリーとなり、1998年にオウム真理教を内部からの視点を交えて描いた『A』、2001年の続編『A2』、2016年ゴーストライター問題を追及した『FAKE』を発表。メディア報道と視聴者のイメージの癒着を根底から覆す手法が高い評価を得る。2019年11月15日から、新作『i -新聞記者ドキュメント-』が公開される。


cafeマルマス
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lunchtime.11:00-14:00 ※ランチは土日限定メニュー
※ 駐車場有り。

ライター

木野彩子

札幌、東京、パリ、ロンドン、神奈川で落ち着くかと思いきや、鳥取に流れ着いて早一年。鳥取ビギナーとして学びつつ、踊りつつ、輪を広げることを志す。元体育教師・カンパニーダンサーという異色の経歴を持ちつつ、2016年より鳥取大学地域学部附属芸術文化センター講師。最近は踊るのも生きるのもあまり境目がなくなってきました。 photo:西岡千秋