永井伸和さん(株式会社今井書店グループ 相談役)#1
「逃げた米子で花が咲く」~米子を支える精神の背景

米子市に拠点を置く今井書店グループは1872年、今井郁文堂として誕生した。以来、山陰地方の出版文化を牽引して来た。永井伸和さんは今井書店グループを率いるかたわら、従来の書店業にこだわらず地域の文化育成につながる様々な事業を行って来た。今年1月に従兄弟の今井直樹さん、田江泰彦さんとともに代表権を退き、41歳の島秀佳社長が誕生。現在は相談役となっている。これまでの活動の思いの由来を尋ねた。


― ビジネスのみならず、地域社会に貢献する出版文化の育成に力を注いで来られました。家業である書店を継ぐのを早い段階で決め、その中で思うところを事業として展開して来たのでしょうか。

いや、最後まで継ぐことには抵抗しました。と言うのも大学3年生になって、ようやく学ぶことのおもしろさがわかって来たからです。大学院に進むために家庭教師と新聞配達を掛け持ちし、進学に必要な資金を稼いでいました。学問で身を立てようとまでは考えていませんでしたが、自立について思うところがあったのは確かです。当時は第一次安保闘争 (1) の直後、学園紛争の季節でもあって、学生たちも血気盛んでした。
けれども、そういう雰囲気に対して、ひとりひとりの学生が自立して考えているのかなと疑問を持ちました。戦前と同じく大きな声になびいているような危うさを感じ、集団のあり方とかこの国の形について「このままでいいのか」と思ったのです。キャンパスの体制側にも反体制側にも違和感があって、確たるものは何もないけれど、もう少し学びたいし、考えたいという気持ちがありました。
それでも院に進むことを断念し、米子に帰ることを決めたのは、両親が上京して、「とにかく帰ってきて欲しい」と言い、母親に至っては涙を流したからです。戦中戦後と、母はずいぶん苦労していました。そのことを知っているから、一滴の涙に負けました。家業を継ぐことを決意しました。

今井書店錦町店近くの今井書店グループ本社事務所にてお話を伺った

― 幼い頃から文字に親しむ環境だったと思います。とりわけ熱心に読んでいた本はありますか?

好きだったのは、ヘルマン・ヘッセやロマン・ロラン。父の本棚からは、河合栄治郎、矢内原忠雄など。でも、いちばん記憶に残っているのは書物ではなく、棚にあった一冊のノートでした。それは父が敗戦時の体験を綴った内容です。
両親は1941年に結婚し、翌年私が生まれました。父は大学の研究室にいたのですが、赤紙が来て召集されました。所属していた部隊は中国大陸から台湾に転出し、上陸するアメリカ軍を迎え撃つための飛行場の造成を命じられたそうです。父は平和の「和」の一字をとって留守宅で生まれた私に伸和とつけました。当時は「勝利」だとか勇ましい名前をつけることが多かったことからすれば、異色でした。
台湾で終戦を迎えた際、軍の将校たちはこの先について不安になり、父に講演を頼んだようです。父は英法を学んでおり、リベラルアーツが血肉となっていました。そこで近代思想史から祖国への思いを将校団に話しました。それを帰国後ノートに記していたのです。
戦地に行けば死ぬというのに結婚して子をもうけ、しかも息子に平和を表すような名をつけた。その心理は長らくわからなかったのですが、父の綴ったノートを読んでいくうちに少し理解した気がしました。けれども、それは長じてからのことで、父が日本に戻って来た時には、私はもう物心ついていましたから、父帰るで、お風呂場の父親の裸を覗いたりしたけど、お互いにどう付き合っていいかわかりませんでしたね。

事務所の一部を「市民サロン」として開放している

― 軍国主義に染まり切らない知的な家風があったのでしょうか。

母方の文人の血筋とは言えるでしょうね。初代の今井兼文は岡山の医師の養子となり、長崎の鳴滝塾で蘭学を学んだ人物です。シーボルトが一時期、国外追放されていた時期で直接の師事は叶わなかったものの、蘭医を学んだ後は鳥取藩の儒医となり、私塾も開いたそうです。長崎で暮らした際に世界を見たようで、禄を離れてから明治5年には医業の傍ら今井書店の前身となる今井郁文堂を創業しました。学制発布の年だから、やはりこれからは教育が大事だということを思ったのでしょう。活版印刷に手を出すのも早くて従来の木版を改め、明治17年に活版を始めています。長崎時代に、日本の活版印刷の祖といわれた本木昌造と知り合った影響も大きかったと思われます。

― 知を押し広げることをよしとする家訓などはあるのでしょうか。

家訓といったものはありませんが、初代、今井兼文の半生は医者で人間の病を治す仕事に携わっていました。その後の出版物との関わりは、いわば地域や社会を癒すという感覚を持っていたと思います。中でも大事にしていたのは教育で、その思いはずっとあったようです。
文人の気質は代々継がれ、三代目の今井康子つまり私の祖母は謡曲に茶道、短歌も嗜んだ人です。さらには日本画家の上村松園の弟子でもありました。しかも結婚後に子供ができてから、京都へ通ったというくらい美に対する思いが絶ち難くあった人でした。私の祖父・三代目今井兼文は養子で実学の人ではあったけれど、観世流や囲碁、茶にも通じていました。
ちなみに祖母は私の父・永井凖と昭和21年に、彫刻家の辻晉堂や文人画家の早川幾忠、作家の大江賢治などを交えた文人社という集まりへ社内にサロンとギャラリーを提供しました。この文人社が後の米子市文化協議会の前身です。米子の文化はお仕着せのものではないと言われますが、こうした例からわかる通り市民が作って来たのは確かです。

上村松園に師事していた祖母・今井康子さんの画集。当時の生活の様子も掲載写真からうかがえる

― そうした土地柄を生んだ背景とは?

米子は鳥取藩の家老が代々取り仕切っており、しかも商家が多かったのとあいまって比較的自由な雰囲気があったようです。俗謡に「逃げた米子で花が咲く」とあるので、いろんな事情で困った人が来るし、そこで何か新しくやり直す機会があったんでしょう。やはり城下町というより商家の町だったことが大きいと思います。
そうした風土の表れは、例えば米子市の公会堂の建設においても明らかです。公会堂は村野藤吾さんの設計により1958年、建設されました。「一世帯が毎日一円を貯めて公会堂を作ろう」という市民の呼びかけが行われ、建設費1億7600万円のうち3000万円の寄付が集まりました。
また、近年でも、2010年に震度6強程度の地震で倒壊する恐れがあるとの報告から、公会堂の廃止も検討されたのですが、市民の記憶が塗り込められた建物だけに存続を希望する運動が高まり、市議会も改修存続を決定しました。それくらい市民の力がある土地なのです。

― そうした文化風土は現在も継承されているのでしょうか?

残念ながら、大きな潮の変わり目にかかわらず、目先の利害で本質的な課題である教育・文化への関心や、反骨精神は段々と薄れて来ています。

写真:水本俊也

#2へ続く

1:1959年から翌年にかけて展開された日米安全保障条約の改定に反対する闘争。1960年の自民党による強行採決後、全国的な運動に発展し、デモ隊が国会構内に突入し警官隊と衝突した。


永井伸和 / Nobukazu Nagai
1942年米子市生まれ。山陰地方最大規模の今井書店グループの会長を2018年1月まで務め、現在は相談役。読書運動の推進や地方出版の育成を通じた、本による地域文化づくりに長年寄与。三代今井兼文のドイツの書籍業学校(現メディアキャンパス)に学ぶべきという遺志を継ぎ、1995年1月米子市に本の学校と実習店舗を設立。2012年3月1日より、特定非営利活動法人「本の学校」となる。1991年にサントリー地域文化賞受賞。2009年、第57回菊池寛賞を今井書店グループと「本の学校」として受賞。

特定非営利法人「本の学校」
鳥取県米子市新開2-3-10
Tel: 0859-31-5001
Fax: 0859-31-9231
www.honnogakko.or.jp/
b-schule@imaibooks.co.jp

株式会社 今井書店
https://www1.imaibooks.co.jp/book/

ライター

尹雄大(ゆん・うんで)

1970年神戸生まれ。関西学院大学文学部卒。テレビ制作会社を経てライターに。政財界、アスリート、ミュージシャンなど1000人超に取材し、『AERA』『婦人公論』『Number』『新潮45』などで執筆。著書に『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』(ミシマ社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』(晶文社)など。『脇道にそれる:〈正しさ〉を手放すということ』(春秋社)では、最終章で鳥取のことに触れている。