川口淳平(鞄製造販売)#2
「花結び」との出会い

独学でカバン作りを始め、自分の店も構えることができた。順風満帆に見えながらも、早々に作っても儲からないという事態に陥ります。いったい川口さんの身に何が起きたのでしょう。


ー発注もたくさんあるのに生産が追いつかないのはともかく、お金が残らないとはどういうことでしょう。

手縫いだけでは注文をほとんどこなせなかった上に、朝8時から夜中3時まで働いても毎月赤字でした。要は作っている手間と時間と値段が合っていなかったんです。しかも原材料費と手間賃を考えて定価を決めるのが普通でしょうけれど、金額の計算方法もわかっていませんでした。「一般的に考えてこれくらいだろう」といって決めていました。
手縫いだけで売り上げを確保するには値段を上げないといけない。はたしてこの米子という土地と人口でそれでやっていけるのか? そう思ってミシンを導入し、手縫いとの値段の差をつけました。

ーそれからは順調に製作できましたか?

ひとりでやるには1、2年かかるだけの注文量がありましたから、人を雇わないと追いつかない。そこで儲かってもいないのに人をふたり増やしました。教えることは増えても自分の仕事はできない。どんどん立ち行かなくて、寝る時間がますますなくなっていきました。それでも続けていくうちに教えた人たちが独立することになって、またひとりで製作ができる環境になりました。ここまで来るのに10年くらいかかりました。

店舗内のランプシェードも籐でつくられている

ーほとんど独学という話ですが、自分で「技が身についた」と思えたのはいつですか?

目に見えて技が身に付いたということはなくて、作ったものを売ってもいいかなと思うようになったのは財布を作れて、カバンも一種類を作れるようになったときです。だいたい展示会を開く1年前くらいですね。
とにかく作って使ってみて、「これは使いにくいな。ここをこう変えればいいか」というのを繰り返していました。先述したようにエルメスのバッグを写真で見て、その縮尺の厚みで作ってみても、できあがったものはすごく使いにくい。けれど、みなさんそれを使っているからには、僕が作ったものと何かが違うはず。
財布だと断面を見るとだいたい3ミリしかないけれど、見たままの構造で作ると確実に1センチの厚さになる。3ミリにするには端だけ薄くする、もしくは全体を薄くするということになるわけです。そういう工程の違いが無限に存在しているから、色々試せばどんどん時間が経って行く。その間の生活は妻の働きで支えてもらっていました。彼女は「いつになったらこの人は外に出て行くんだろう」と思っていたこともあるようです。

ーものができるまで工程のひとつひとつを分解し、同時にデザインを組み直す作業をしていたんですね。

そうですね。見本を分解すれば一番いいんでしょうけれど、なにぶん高価なものなので買うお金もない。自分の頭の中でそれをやったり、実際に絵を描いたりしてました。

花結びの炭斗。写真奥が2代目 長崎福太朗 作(1870年代)、手前は6代目(当代)長崎 誠 作(1980年代)

ーひとりで打ち込めるようになった頃に新しい素材として籐に目をつけられたのでしょうか。

たまたま革が身近にあっただけでそれに固執していたわけではありません。革以外の強い材料を常に探していました。それがかえってカバンとして長く保ち、飽きられないようにするにはどうしたらいいか、と考えて作ることにつながったのかもしれません。だから、革以外の強い材料を常に探していました。ちょうどその頃に竹も素材として強いとわかって、竹細工の職人にカバンの本体を作ってもらいました。でも、自分の思っていた形にはなりませんでした。竹は硬いので、どうしても角ばってしまうのです。
革と帆布だと自分の好きなように縫い合わせることができても籠はそうはいかない。竹では難しいと思っていたときに、いまの師匠である長崎誠さんが籐で籠を編んでいると知ったのです。

ー他の素材にはない籐の特質とは?

籐は軽いし強い。水につけると柔らかく丸くなり、しかも180度以上曲げても折れない。師匠の作っていた籠は僕の思うような形になっていました。
そこで「カバンの本体となる籠を作ってください」とお願いしたら、師匠は当時68歳くらいで「腰が痛くてもうやらん」と言われた。しかも聞けば後継者がいないという。私はカバン屋だし籠屋にはなれません。けれども技術だけ習っておけば、いつか誰かに教えることはできます。そこで松江で開催されていた籐細工の教室に週に一回通うようになり、ざる編みだけはできるようになりました。それから5年経ったけれど誰も継ぐ人が現れませんでした。

思いがけず長崎家の後継者になったと微笑む川口さん

ー長崎家には「花結び」といった、網目が六弁の花模様になる編み方が伝えられていたそうですね。口伝は長崎家の血筋を引く後継者にのみ教えられるのですか?

はい。このままでは失伝してしまうから、本腰入れて後継者を探そうと思って、うちの店で師匠の回顧展を開催することにしました。師匠がこれまで作ってきたものや買った人から借りたものを展示したのです。実物を見たらきっと誰かやりたい人が現れると思ったのです。
来られた方はアンケートに「とてもいい籠だから残して欲しい」といったことを書く人は多かった。でも「やりたい」という人は出て来ませんでした。
師匠にお客さんのコメントを見せて、「こんなに欲しいという人がいますよ」と伝えたら、急に「君、やらない?」とお話しで、でも私はカバン屋だから籠屋にはなれない。そうしたら「二足のわらじでいいがん」ということになり、そこで初めて「花結び」を教えてもらうことになったのです。

製作途中の花結び。編む人の個性が出るという

ー書き記されたものはなく、口伝なのですか?

結果として口伝になってしまったのでしょうね。師匠は花結びを年に2個くらいしか手がけず、しかももう10年作っておられなかったので、現物が手元にありませんでした。頼りは口伝と小さな写真だけ。
まず口頭で「この数を並べて編んでいくんだよ」と習って作り始めました。すると、できた籠は写真とまるで違う。これまでの5年間、籠を編んできて、そんな歪な形になるのは初めてでした。なんでだろうと思っていたら、「個性があるからね」と師匠に言われました。

ーでも、明らかに個性の反映とは違う形になったのですね?

師匠の教えてくれた通りの籐の数、幅、本数で作っているのに、やればやるほどおかしくなる。花結びの籠を一個作るのに一週間から10日かかります。4ヶ月くらい厚みや力加減を変えて作ってみましたが、ちゃんとした形にならない。試行錯誤の最中に師匠の知り合いに見てもらったら「もっとゆったりしないといけない」と精神論を言われたりしたので、自分では無理かもしれないと思ったこともあります。
けれども、これだけやってダメなら数が違うはずだと思い、師匠のくれた写真の画素数は荒いけれど、拡大して見たらどうも指示された本数より少ない。そこで「教えて頂いたより少ない数ではないですか?」と尋ねたら、「そうだったかもしれない」とおっしゃった。減らした本数で編んでみたら普通にできました。

花結びを編む川口さん

ー長崎さんも手ずから作れば間違った本数で編むことはなかったかもしれません。改めて教えるとなって認識と実際にズレが生まれたのでしょうか。ともかく試行錯誤のおかげで統計が取れたわけですよね。

そうです。材料の特性と絡めて数が増えると形がこう変わるかといった理屈ができました。長崎家には今まで理屈が、データがありませんでした。と言うのは、誰もそれを試したことがないからです。それぞれが好き勝手に作っていただけに、僕の経験を通じてデータが取れたからすごくよかった。作る上での奥行きができたと言えます。

ー因果関係がはっきりしただけに、次世代に教えやすくなったと言えます。

ただ、わかりやすくなった反面、逆にそれに囚われてしまうかもしれないと思うと、そこは難しいですね。ある程度やった後で言ったほうがいいこともあります。最初はできる限り自分で模索したほうがいい。そうでないと決まり切ったものしかできなくなりますから。もしずっとそれを買ってくれる人がいるなら、決まり切ったものを作るのでも構わないとは思います。

写真:水本俊也

#3へ続く


川口淳平/Junpei Kawaguchi
1998年、広島県三原市で鞄の製造を始める。2006年、鳥取県米子市でミントチュチュレザーを開店し現在に至る。

ミントチュチュレザー
米子市米子市上福原3丁目8−7 Nハウス102
0859-32-8650
営業時間:13:00-19:00
定休日:水曜日 その他展示会などでお休みすることもあるので確認の上お出掛けください。
http://www.mint-chu-chu.com/
mail@mint-chu-chu.com

ライター

尹雄大(ゆん・うんで)

1970年神戸生まれ。関西学院大学文学部卒。テレビ制作会社を経てライターに。政財界、アスリート、ミュージシャンなど1000人超に取材し、『AERA』『婦人公論』『Number』『新潮45』などで執筆。著書に『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』(ミシマ社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』(晶文社)など。『脇道にそれる:〈正しさ〉を手放すということ』(春秋社)では、最終章で鳥取のことに触れている。