田口あゆみ
気配のかたち
#5 見えない世界を広げる方法

失明し、米子に帰って7年。いまも光と影、全ての色やかたちに強く焦がれている。ここ数年はカメラを回して作品を作ることも。見えないのにどうして映像なのか、確認できないヴィジョンは本人にはどんな意味を持つのか? 視覚喪失後の世界で撮り続けて変わること/思うことを書いていきます。


最近、「見る」ことについて考える。以前とは違って、いつもいろんな「目」に助けられているからかもしれない。ずっとみんな自分と同じように見ているとなんとなく思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
わかりやすいのは、わたしのインナービジョン。風に揺れる木々、曇り空や信号待ちの車、走ってくる子ども、人の表情。おそらく現実とかけ離れて不確かで、だけど実感を与えてくれる世界の映像。以前は想像もしなかった柔らかさ。目で見ることはできないけれど、音や空気から伝う感覚はわたしに生き生きと世界を見せてくれる。多分、「見る」機能は目だけのものではなくて、身体全体の感覚なんだろう。視力を失くした今は、身体がわたしの世界を見ている。
それから他の人の「目」。もちろん他人の視覚体験を共有できるわけではないので、わたしに視覚情報を分けてくれる他人のことばがその人の世界も見せてくれるのだけど、最初はそれぞれが違っていることに気づいてびっくりした。
例えば、近所の家に飼われている犬。その賢い柴犬は、5歳の甥っ子に言わせると「怖そうな大きい犬」になる。小さい頃のことを思い出してみて欲しい。犬が怖いという感覚も手伝っているけれど、単純に身体が小さい彼の目には本当に大きな犬が映っているはず。生物が種類によって違う構造の目を持っているのは、それぞれ見なければいけない物が違うせいなのだろうけど、同じ人間でもサイズや状況によって必要な視覚情報は変化するのかもしれない。大きさの感覚が自分の身体との対比から生まれることを考えると、ものすごい大男に変身して世界を見てみたいような気がする。
興味や関心も見る対象を変える。ランナーが早く走れそうな人の身体つきに気づくように、町の路面の状態を知っているように、人間の目は興味のあるものを見ている。賑やかな場所で耳が会話相手の声を拾うのと同じで、脳が見る対象を選んでいるのだろう。目の構造からはあり得ない滑らかな映像を見せてくれたり、本当はあるはずの視神経の穴をカバーしたり、視覚の分野で脳は大活躍している。異なる脳は、それぞれ違うアプローチで世界に向き合っている。

バードコール。子どもが鳥の声を真似て鳴らす。よく聞くと鳥と鳴き交わしている。iPhoneで撮影。

見ている世界が異なるというのは、なんて素晴らしいんだろうと思う。人がそれぞれ違うものを見ながら、同じ場所で生きている。左右の目が結ぶ像の違いから遠近感を得るように、別の世界を重ねて自分と世界の距離を知るのかもしれない。そして、他人が見ている世界を想像するのはとんでもなく楽しい。
キノコ狩りに出かけると、最初は影すら感じられなくても、誰かに指差してもらうだけで見えなかったキノコが次々見えてくる。美しい写真で毛虫の派手な配色の調和に気づけば、色の意味を考えて自然の色が楽しくなる。異なることは行き止まりではなく、自分の世界が持たない場所を教えてくれる目印みたいだ。
色々なことばをもらい、インナービジョンを見る世界は以前とは違う広がりを持っているのだろうか。見えない世界も「見る」ことのバリエーションのひとつなのかもしれないと思った。

※このコラムは2019年度あいサポート・アートセンター障がい者アート活動支援事業補助金を活用しています。

ライター

田口あゆみ

米子生まれの米子育ち。東京で編集の仕事をしていたが目を病んだことをきっかけに帰郷。人と機会に恵まれて自分で映像を作り新しい喜びに気付く。障害を得たせいか米子というコミュニティの特徴なのか、人との関わり方が以前と全然変わって面白い。出会いに感謝しつつ新しい視点の楽しさを伝えられたら、と模索中。