田口あゆみ
気配のかたち
#4 想像と現実との距離を測る

失明し、米子に帰って7年。いまも光と影、全ての色やかたちに強く焦がれている。ここ数年はカメラを回して作品を作ることも。見えないのにどうして映像なのか、確認できないヴィジョンは本人にはどんな意味を持つのか? 視覚喪失後の世界で撮り続けて変わること/思うことを書いていきます。


わたしが作るもの、編修された映像はなんとなく記憶に似ている。過去のある時点ではなく、それらのシーンが連なって作られる現在の記憶。何かにまつわる、誰かについての、と言ったらわかりやすいだろうか。
例えばいなくなった誰かを思い出すとき。無数の思い出の中からあちこちの時間、バラバラのシーン、その人がいない風景さえ、なぜか同時に浮かんできて感情が生まれる。亡くなる直前の姿と一緒に、台所仕事をしている祖母が浮かべばあまりの日常に涙が出そうになったり、逆に亡くなった瞬間の思い出が穏やかに感じられたり。誰もいない祖母の定位置の映像は、暖かかったりうつろだったりする。
思い出すシーンのチョイスも生まれる感情もその時の自分次第で、現在でない記憶は新しい現在にどんどんかたちを変えられているみたいだ。
撮影した映像を素材として見ると、写っているものの他に自分の状態が見える。はしゃいでいる、感動している、喜び、さみしい気分。テーマに合うものをいくつか選ぶのだけど、素材同士は直接関係あるものではなくて、全然別の場面や断片的なインタビューが混じることもある。
わたしが作るのは、そんな映像とことばを組み合わせた映像詩みたいなもので、自分の中ではそれぞれが響きあう。その感覚が記憶と重なっている。

ビニール傘の柄にカメラを固定して撮影。偶然にズームした傘越しの桜

編集作業の前に使う素材を選びながらことばをつけるのだけど、これは自分の想像と現実との乖離を確認するプロセスでもあった。やってみて初めて気づくのは「インナービジョンは映像に反映されない」こと。こんなわかりきったことに混乱し、それが終わらないと次に進めない。毎回くり返すので、おそらく見えないことへのもどかしさや痛みをすり替えているのだろう。
実は想像を裏切られることは面白い。実際の編集作業で写っているものを説明してもらうと、程度の差はあっても思っていたのと違っている。角度がずれていて被写体がずっと見切れていたり、光や影の具合いで驚くような映像になっていたり、誰かが変な顔をしていたり。人によって教えてくれるポイントも様々で、撮影したときの感覚はそのままに、イメージが変化する。「映像につけたことばも違うように見えるかもしれない」と考えて、それはどんな人が作っても同じだと気づく。
わたしの映像は自分の中では完結せず、見る人に多くを委ねている。視覚の世界にしか存在しなくて、触れないものを作るのは変な気分。ずっとチューニング途中のまま何かを伝えようとするような不確かさが、不安で仕方なくて、ワクワクする。

※このコラムは2019年度あいサポート・アートセンター障がい者アート活動支援事業補助金を活用しています。

ライター

田口あゆみ

米子生まれの米子育ち。東京で編集の仕事をしていたが目を病んだことをきっかけに帰郷。人と機会に恵まれて自分で映像を作り新しい喜びに気付く。障害を得たせいか米子というコミュニティの特徴なのか、人との関わり方が以前と全然変わって面白い。出会いに感謝しつつ新しい視点の楽しさを伝えられたら、と模索中。