本棚帰郷 ―鳥取を離れて #4
物語をつつむもの『鳥取の民話  新版日本の民話61』
(後編)

自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。全国の民話を集めたシリーズから『鳥取の民話  新版日本の民話61』を紹介する最終回です。


そこに民話があるとうれしい。この紹介の前編の最後にそう書いた。語りの会への参加を経て、もう一度、最初に述べたことについて考えてみたい。

うれしいと感じるのは、物語がそこにあることで、その場所に奥行きが与えられるからだと思う。自分のよく知っている場所に、ある入り口があって、その奥に全然知らなかった世界が広がっている。それを知ることは、楽しい。読む(聞く)者はその中に入っていって、その世界を探検する、体験できる。あるいは実際に入らなくても、入り口が見えるだけで、その先の何かがみえる。生きられた世界がそこにある。

ところで物語ということでいえば、現代においてより一般的なのは小説だけれど、民話は、欧米の近代社会で生まれた小説よりも、ある場所の物語としてあるように思える。小説には作家と、作家が作った主人公がいる。小説のストーリーに感情移入しその世界を体験することはできるけれど、やはりそれは作者が作り出した人物たちの、つまり自分とは別人の世界である。そこにいろいろと固有名が出てくることで(例えば、秋川まりえ・小田原市・リヒャルト・シュトラウス、などなど (1) )、それはそのものとして独立した存在を持つ一方、読者とある程度の距離を生じさせる。

それに対し民話は、長い時間を経て、たくさんの人の口を通って伝えられてきたもので、誰が作ったのかわからない。登場人物は「おじいさん」「男」「働きもんの嫁さん」など名前がなく、あったとしても「太郎」や「佐平」など特徴のうすい名で、人物に固有性がない。誰でも代わりに入れそうな気もするし、誰も入れなさそうな気もする。さらには場所の名すら出てこないことも多く、いつの出来事かもわからない(「むかし、あるところに」)。でもそんな風に世界に固有性がなく、作家の署名もないことで、物語は風景となり、この現実と民話の世界が地続きとなる。そしてその世界の片隅で、自分が生きていられそうな感覚が、なんだかする。

だから、民話を読む(聞く)者は、より直接的に、それを自分の世界とつなげることができるのではないだろうか。

 

長く民話に取り組んできた人たちは、その魅力をどう捉えているのだろう。

先日の語りの会にも参加された、岡山で民話の活動を精力的に行う立石憲利さんは、子どものころ寝ながら両親から民話をいっぱい聞かされて、愛情をいっぱい受けた記憶とともに、民話はあると述べていた。また鳥取の民話を集めた別の本の中である語り部は、「遠い祖先から伝わってくる素朴な言葉の中から…やさしさが…その言葉の温もりが伝わってくるような感じを受けました」 (2)  と述べている。民話の魅力は、その内容だけではなく、それを通して、物語を伝えた家族や先人の存在が伝わってくることにあるのかもしれない。

民話に関する著作の多い、作家の松谷みよ子さんは、ある本の中でこう述べている。

木下順二 (3) 氏 の『夕鶴』が佐渡の「鶴女房」から取材していることは広く知られているが、ある工場で『夕鶴』を上演したとき、観客である女工さんたちが総立ちになったのは、夫であるよひょうが機場をのぞこうとしたところだという。「のぞくな、のぞいてはいけない」と、口々に叫んだという。/その、のぞくなという意味は、きわめて具体的にもとれるし、人間が人間として踏み込んではならない一線−たとえ夫婦であっても−、人間への尊厳、そこを踏み越え、侵すことへの抗議ともとれる。何にしても、二十代の娘たちはその場面に深い共感を持ってこたえたのだった。(『民話の世界』 (4)

ここでは、絶対にのぞいてはいけないという女との約束を破った男が、本来の鶴の姿に戻って機を織っていた女の秘密をのぞき見てしまい、鶴が去る場面について述べられている。もちろん実際にこのままの出来事があるはずはないのだが、それを見た女工たちはこの話を、現実に起こる出来事の隠喩(メタファー)として見ていると松谷さんは言うのだ。彼女は女工たちとともに、民話の物語の中に、現実に起こる出来事、その息吹を感じている。

彼女たちは、民話から、強く現実世界とのつながりを読み取っているように思われる。それは最初に書いたように、民話が直接的に聞く(読む)者とつながる構造をもっていることも関係しているだろう。僕には家族から直接民話を聞かされた経験はないし、読んでいる時に、先祖を感じたこともまだない。松谷さんのように、民話のストーリーに深く感情移入して現実の経験と関連づけることも、あまりうまくできない。それをするには、僕(たち)は欧米から導入された、近代化の影響を受けすぎているのかもしれない。でも、彼女たちが民話から現実とのつながりを感じ、あたたかさを感じている、そのことには心が動かされる (5)

 

個人によってやむにやまれず生み出された物語、市場で売れるよう創作された物語、人間を政治的共同体に従属させるための物語、そして宗教的啓示によって生まれた物語。この世には様々な物語が存在する。それらは人を助けることもあれば、損なうこともあるだろう。しかし僕たちは、それでも何らか、生きる上で物語を必要とする。

その時、民話は、少なくとも信じうる物語なのではないだろうか。立石さんも言っていたように、民話は祖父母や親が、誰にいわれるでもなく、子どもや孫などの近しい若い者たちに愛情を込めて語り、そうして自然に口伝えされてきたものだ。そこに聞く者を損なう要素は、限りなく少ないように思われる。

およそ60年前に書かれた次の文章にも、そのことは示されている。

戦争中から日本の民衆の中に芽生えていた芽が、敗戦十年後の今はっきりと伸びつつある。それまで大部分の民衆が、これこそたよるべき「権威」であると思っていたものが敗戦によって崩れた際、民衆は一時ぼう然とした。しかしそのぼう然さから自分を取り戻した時には、崩れさったと思われたあの「権威」との微妙なつながりにおいて、すでに別のある力が民衆をおさえていた。ひとくちにいえば「植民地的現実」という壁である。そしてこの壁とぶつかる時、一面ではそれと激しく闘いながら、同時に民族のこころのふるさとへと民衆が志向するのは当然だろう。一方でその壁を突き破ろうとする激しい闘いがある限り、その闘いとつながってこのことが出てくる限り、この志向は決して古いものへの逃避的懐古ではない。そうしてその志向は、上からの、あるいは外からの「権威」にたよらず、民衆自身の中から新しい力を生み出していこうとする意欲をその中にこめている。 (6)

この一節は、先ほども登場した木下順二氏によって1955年に書かれたものだ。この言葉は、いくつかの要素が異なる局面にスライドしつつ、今の時代につながりうるのではないか。そう思う。前編で述べた資本主義のみならず、「崩れさった権威」、「植民地的現実」、これらのものと、僕たちはいまも向き合っている。その時民話は、そういうものとはまったく別の方向からやってきて、僕たちを支えてくれるのではないか (7)

 

長い紹介になりましたが、鳥取の民話、ぜひ読んでみてください(またそれに限らず他の地域のものも)。そしてぜひ、語りの場にも足を運んでみてください。

(終わり)


1. 村上春樹『騎士団長殺し』に登場する固有名詞。
2. 酒井董美編『ふるさとの民話・鳥取』300頁、ワンライン、2009年。編者は長年山陰両県の民話やわらべ歌を採訪し、多くの著作にまとめている。第一回中国五県民話グループ交流会の事務局も担当し、また初代館長を務めた「出雲 かんべの里」では、語り部たちによる様々な民話の語りを聞くことができる。http://kanbenosato.com/
3. 劇作家。民話をもとに「夕鶴」などの戯曲を制作。その上演をきっかけに、1952年「民話の会」を設立。雑誌「民話」を創刊し、戦後の民話運動の端緒となる。1914年生、2006年没。
4. 松谷みよ子『民話の世界』123頁、講談社学術文庫、2014年。著者には『龍の子太郎』など民話をもとにした児童文学の作品も多い。1926年生、2015年没。
5. 前回筆者は、民話の主な役割は娯楽だったのではないかと書いた。それはとても広い意味で「娯楽」といったつもりだったが、やはり表現として不十分だったように思う。
6. 木下順二「民話について(3)」(『木下順二集 3』348〜349頁、岩波書店、1988年)。
7. 民話の現代的な捉え直しという意味では、みやぎ民話の会の小野和子さんとともに活動する、せんだいメディアテークの取り組みが魅力的だ。その様子は『ミルフィユ08 物語りのかたち』(2016年)に詳しくまとめられている。またホームページでもその様子を見ることができる。https://www.smt.jp/projects/minwa/


 今回の1冊『鳥取の民話 新版日本の民話61』
編者:稲田和子
出版社:未來社
発行日:1976/7/30
ISBN : 9784624935610

ライター

nashinoki

1983年、鳥取市河原町出身。鳥取、京都、水俣といった複数の土地を行き来しながら、他者や風景とのかかわりの中で、時にその表面の奥にのぞく哲学的なモチーフに惹かれ、言葉にすることで考えている。