本棚帰郷 ―鳥取を離れて #14
『The Seed of Hope in the Heart』(6)

自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本や作品を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市で種屋を営む佐藤貞一さんが、母語ではない英語で書き続ける本『The Seed of Hope in the Heart』を取り上げる6回目。


前回は、筆者自身がどうして佐藤さんの英語手記に関するこの文章を書くことになったのか、その経緯を説明しようとした。震災という出来事を、日本社会はまだ受け止めきれていない。その感覚が、記事を書き始めた理由だった。けれど震災を「受け止める」とは、いったい何を指すのだろう。そのためには何をしたらよいのだろう。そのことについて、もう少し考えてみたい。

震災を「受け止める」
『息の跡』を撮影した小森はるか監督と行動をともにする画家で作家の瀬尾夏美さんは、最近出版された著書『あわいゆくころ ― 陸前高田、震災後を生きる』の中で、震災直後の陸前高田を訪れた時に得た「さみしさ」の感覚について、次のように述べている。

でも、そこに巨大なさみしさがあるのなら、ともかくここにはもうすこし、人が必要だ。そして、分けてもらえないとしても、そこにあるものを何とかして、分かち持てたらいいのにと思う。道ですれ違った人が抱えきれない荷物を引きずっているのを見かけたら、思わず手を差し伸べたくなるように、巨大なさみしさが偏ってそこにあるのだとしたら、多くの人がそこに足を運んで、ともに支えることができないか。かなりのお節介だし、おこがましいことだけれど、もしそれを分かち持つことができたら、メディアなどを通じて間接的にでも出来事を目撃した人たち、遠い出来事だと思ってその場にとどまらざるを得なくなっている人たちも、すこし救われるような気がした。何よりも私がそうであった。(1)

著者はここで、陸前高田の人々に寄り添い、言葉を述べているように思える。けれどそれは後になると、被災地ではない場所に住む人の側のことを言うように反転している。「さみしさ」は前者の側の問題であるだけでなく、後者の問題でもある。その両者は、「さみしさ」を介してつながっている。「さみしさというひとつの感覚を媒介にして、互いの存在を再び認知しあうこともできるかもしれない」(2) 。そう彼女は述べ、自身と被災地の人々をつなぐものとして「さみしさ」を発見し直している。

『あわいゆくころ ― 陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2018年)

ここで述べられていることは、筆者が「受け止める」という言葉で考えようとしたものと関係するのではないかと感じている。震災を「受け止める」という言葉の意味するものは曖昧で、いったい誰が他の誰の何を受け止めるのか、どうしたらその現状を変化させられるのか、はっきりしない。けれど起こっていることが、ここで言われているように、被災地の人々とそれ以外の土地に住む人々の間に「境界線」(3)が引かれ 、それによって互いの存在を認めることができなくなっていることだとしたら、状況はもう少し明晰になる。必要なのは、その両者をつなげることだからだ。

日本社会は、東北の被災地のことを忘れようとしているのではないかと先に述べた。同じ社会(ひとまずここでは日本という国と考える)の中に、いまなお苦しむ人がいる。その存在を知っているのに、直視しないまま忘れようとする。それは社会を作り上げる一員として、苦しむ人々を認めない振る舞いなのではないだろうか。共に一つの社会を作り上げている人たちを見過ごしたまま、わたしたちはこれからもその人々と社会をつくり、前に進んでいくことができるのだろうか? そのようなあり方は、被災地以外に住む人びとの側にも、大きな空白を残したままにするのではないだろうか。

この空白は、もしかしたら「さみしさ」と通じる感覚かもしれない。しかしそれは、いま被災地の人々とつながっていない。けれど空白を抱えた人々が、自身のうちを見つめ直そうとする時、空白はその質を変えていくかもしれない。「さみしさ」は、そのための回路となるかもしれない。

佐藤さんの手記を読む
この記事を書こうとした時、筆者は震災後に感じていた後ろめたさとは、別の動機から書いていた。いつからか自分のなかで、佐藤さんに対する向かい方が変わっていた。佐藤さんに、少し近づけるようになったのだ。その時自分の中には、ひとつの回路が生まれていたように思う。それをさみしさと呼ぶのが適切かはわからないし 、状況や程度の差を安易に跨ぎ越すことには注意しなければならないけれど、自分のうちにも、被災地の人々が経験したことと通じるものが存在している。何度目かに陸前高田を訪れた時、そう感じるようになったのだ。

震災から一年半後、依然としてほとんど荒野のような状態だった陸前高田の、市街地の跡地を筆者は見た。砂埃の立つその場所を歩き、世界が剥き出しになっているように感じた。その場所で、プレハブの店にいた佐藤貞一さんに出会い、彼はすごい勢いで、震災の話をしてくれた。遠方からの訪問者に対する佐藤さんのもてなしでもあったと思うが、次々と言葉が溢れてくるようだった。津波のことを聞き、何もない市街地を歩いて、かつてあった陸前高田の町を知りたいと思った。しかしそれについてはほとんど何もわからず、写真も見ることができなかった。後で考えれば当然のことだが、図書館をはじめとして、そのような資料はほとんど津波で流されていたのだ。

その時購入した本書の第2版は、買ったまましばらく読まずに持っていた。一体それをどうしたらよいかわからず、陸前高田の状況に対して、どうかかわったらよいのかもわからなかった。それでも、震災という出来事が社会の表面から薄れ始めたいま、そうであるからよりいっそう、あの本に込められたものを知る必要があるように思われた。壊れた世界は繕われ、破壊されたものの跡は見えなくなっていく。けれど佐藤さんが見た光景、調べたことは、あの中に詰められている。それは時間を超えて、起こったことを語り伝える。

2012年夏、陸前高田で

これまでに佐藤さんに原稿を確認してもらった時、何度目かに、やはり日本語に訳してもらっては困ると言われたことがある。佐藤さんは自分の本が日本語に訳されることに、戸惑いを感じているようだった。英語だから書けたこともあるのだと。震災の記録を日本人が英語で書き、それをまた、日本語を母語とする人間が読むという行為は、いくつもの屈折を孕んでいる。そしてその屈折には、被災の経験からその表現に向かうことへの、断絶と、それでもなお書かずにはいられなかった佐藤貞一さんの、衝迫と、熱がある。佐藤さんの、あるいはまた他の被災地の人々の思いを知ろうとすることは、その屈折の一つずつに目を留め、それを疎かにしないこと、そのための用意をしておくことなのだ。佐藤さんとやり取りをしながら、そのことに気がついた。最終的には佐藤さんは、この記事を続けることを承諾してくれた。記事を書きながら佐藤さんと話すことがなければ、筆者はこういうことを理解することもできなかった。

〈続く〉


1.瀬尾夏美『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』晶文社、2019年、77‐78頁
2.同書82頁
3.それだけでなく、被災地の人々の間にもまた、境界線は引かれていると著者は述べる。同書76頁


 今回の本 『The Seed of Hope in the Heart』5th edition
著:Teiichi Sato(佐藤貞一)
発行:2017年

ライター

nashinoki

1983年、鳥取市河原町出身。鳥取、京都、水俣といった複数の土地を行き来しながら、他者や風景とのかかわりの中で、時にその表面の奥にのぞく哲学的なモチーフに惹かれ、言葉にすることで考えている。