本棚帰郷 ―鳥取を離れて #13
『The Seed of Hope in the Heart』(5)

自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本や作品を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市で種屋を営む佐藤貞一さんが、母語ではない英語で書き続ける本『The Seed of Hope in the Heart』を取り上げる5回目。


これまでこの記事では、佐藤さんの英語の手記について、そこに書かれた内容を紹介する形ですすめてきた。けれどここまで書いてきて、筆者自身がどうしてこのような文章を書くことになったのか、そのことにも触れた方がよいのではないかと考えるようになった。そこで今回は、本の内容紹介からは少しはずれることになるが、そのことについて書いてみたい。

東日本大震災の経験
2011年3月11日、筆者は東京・三鷹のアパートの部屋にいた。当時は大学院に在籍していて、その修了を控えており、修了と同時に鳥取に帰郷する予定だった。今から振り返ると、地震が起こったのは、修士論文の口頭試問が終わった少し後で、さらにその年の1月末には在籍していた大学で、原発とエネルギーの問題を扱った映画『ミツバチの羽音と地球の回転』の上映会を行っていた (1)。当時山口県上関町に、30年近く反対を続けた現地の祝島住民を力で押しつけ、新しい原発が作られようとしていた。映画は、地方の弱者の意思を無視して、都市が必要とする危険な発電施設を無理やり建設する政策に疑問を投げかけるもので、筆者自身が地方の出身だったこともあり、現地の祝島の状況が他人事とは思えなかった。その事態は全国的にはほとんど報道されなかったため、せめて何かの力にと企画した上映会だったが、筆者自身は上関の原発計画に限定して考えていた。その頃はまだ、原発自体に正面から異を唱えるのは、かなり勇気のいることだった。

地震があった翌12日、福島第一原発の異常が報道された。震災前からある程度原発に関する情報を得ていたことと、上の映画を撮った鎌仲ひとみ監督から、なるべく早く首都圏から離れた方がよいとの報せがあったため、筆者はその日の夕方には新幹線で東京を離れた。その時はとにかく放射能に対する恐ろしさが強く、東京で職についているわけでもなかったため、それ以外の選択肢は考えられなかった。事故の混乱で新幹線に乗れないのではないかと心配したが、予想に反してあっさり東京駅から乗ることができ、車内でもはっきり緊迫した雰囲気は認められなかった。

前日の夕方見たテレビでは、津波が陸を呑み込んでいく様子が報道されていた。遠景で最初状況がよく飲み込めなかったのだが、車が次々とその波に浮かんでいくのを見て、大変なことが起こっていると理解した。それでもその時、それに対する反応は、まだ自分には生まれていなかった。原発の爆発が明らかになってからは、ただ恐ろしさと、そこから逃げることしか考えられなかった。そして鎌仲監督から来たメールを、友人や知人に転送した。すると何人かから返事が返ってきて、東京や東北に実家がある友人から、自分たちは逃げることはできないとの返事が来た。それで初めて、放射性物質から逃げることが、最優先の事項にならない友人がいることに気づいた。

それでもその時、筆者は放射能から逃れて、西日本に避難する以外の選択肢を取ることができなかったし、その後も放射能への恐怖から、2011年の一年間、東北地方を訪れることができなかった。やっと被災地を訪れたのは2012年の夏のことで、その時も福島には行かず、宮城県の東松島と岩手県の釜石と大槌、そして陸前高田を訪れた。とはいえボランティアをしたわけでもなく、ただ訪れただけだった。2011年からずっと被災者の人たちに何もできていないことの後ろめたさを引きずりながら、そのうち何か自分にできることを、と思いながら過ごしていた。2012年に宮城と岩手を訪れた時もそう思っていて、しばらく思い続けた。

この記事を書き始めた頃
しかし震災から5年ほど経った頃、その感覚が変わりつつあることに気づいた。東日本大震災が「過去」のことになりつつある感触を感じるようになったのだ。うまく説明できないのだが、震災という事態がそれまで常に頭の片隅にあったのが、一度思い出そうとしてそこに至らなければならないような、そういう迂回を必要とするものになっている気がした。そして愕然とした。いつか何かをと思いながら、あの震災が、現在でなく過去のものになりつつある。結局のところ、被災者への援助ということは、こちらの機会で決めるのではなく、被害を受けた人がいるとき、ただちにそこに手を差し伸べること、それ以外ではなかったのではないか。震災当時の大きな被害から回復しつつあるいま、結局自分は何もできなかったし、これからももう何もできないのではないか。筆者は2012年から何度か陸前高田を訪れていたが、その自分は、一体どういう資格でここに来ているのかと考えた。自分の存在は、東日本大震災の被災地で無意味に思われたし、そこにいる理由がなくなったように思えた。

2012年夏、陸前高田に隣接する住田町で泊めてもらったお宅のかぼちゃ。他にもたくさんの野菜で、家の中はいっぱいだった
2015年1月、陸前高田で

佐藤貞一さんの英語の手記に関するこの記事を書き始めたのは、その頃だった。といっても、何かこれが被災者への援助や貢献だと考えたからというのとは少しちがう。先ほども述べた、時間の経過とともに震災に対する距離感が変わりつつある感覚と交差する出来事として、東京オリンピックの開催が2013年に決定し、「復興五輪」と銘打たれてはいたものの、日本社会は意識的に東北の被災地のことを忘れようとしているように見えた。そして自分自身も、この国で生きている以上、その状況の中に巻き込まれている。けれども同時に、あの震災という出来事を、この社会はまだ受け止めきれていないという感覚も強くあった。

筆者は震災後すぐに東北にボランティアに出かけ、その後陸前高田で生活した小森監督たちのように、現地のことを知っているわけではない。数回その土地を訪れ、何度か佐藤さんから話を聞いたに過ぎない。それでも、こんなかかわり方しかしていない人間でも、自分が伝えなければ、英語で書かれたこの手記のことを同時代の日本人の多くは知らないままで終わるのではないか。そう考えた時、自分のような人間でも、この本について伝えることをしなければならないのではないか。そう思った。

〈続く〉


1.『ミツバチの羽音と地球の回転』は、鎌仲ひとみ監督によるドキュメンタリー映画。中国電力上関原発計画に反対する祝島の人々と、再生可能エネルギーの利用が進むスウェーデンの社会や制度について紹介している(http://888earth.net/top.html)。この上映会では、映画上映の後に、鎌仲監督に加え環境エネルギー政策研究所の飯田哲也氏、東京大学教育学研究科教授(当時)で、科学哲学を専門とする故・金森修氏に登壇をお願いし、原子力発電の問題点と次代のエネルギーについて論じてもらった。


 今回の本 『The Seed of Hope in the Heart』5th edition
著:Teiichi Sato(佐藤貞一)
発行:2017年

ライター

nashinoki

1983年、鳥取市河原町出身。鳥取、京都、水俣といった複数の土地を行き来しながら、他者や風景とのかかわりの中で、時にその表面の奥にのぞく哲学的なモチーフに惹かれ、言葉にすることで考えている。