本棚帰郷 ―鳥取を離れて #8
『BOOKSTORE 移住編』(4)

自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本や作品を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。今回はドキュメンタリー映画『BOOKSTORE 移住編』を紹介する最終回です。


自分でする必要はあるのか

最後にもう一度、モリ君の生活の方法である自給自足とDIYについて考えてみたい。

モリ君は、生きるために必要なことをなるべく自分の手でしようとする。全部を自分でつくったら、どうなるだろう。そうすると、できたものがどうしてそうなっているのか、自分で全部わかる。だから壊れたところやおかしいところは、自分で直すことができる。そして自らの行為がどこに、どれくらい影響を及ぼすのか、認識することができる。何ものにも、それらについて、意思に反することを強制されることはない。

延命行為とは、自分のした事に対する責任の無いビジネスや喜びの無い労働のことだ。嘘を分かっていながら、ただ生き延びる為に生きるという、その為に行なわれるあらゆる種類の活動のことだ。[中略]「戦略」とか「ビジネス」とか、そういった延命行為を辞めて、「生きるということに自分も命を懸けてみたい」と思ったから今こうして生きてる。/だから本屋が儲かるかどうかとか、地方の時代だとか、自分にとって全然問題じゃない。(ブログ「小屋を建てる」2014年6月24日の投稿より)

ここには、既存のシステムに依存しきって生きる「延命行為」に対する、モリ君の批判的決意が述べられている。彼の言っている(している)ことは、とても正しいと思う。

でも同時に、「正しい」からこそ、筆者はそれに対して後ろめたさを感じることがある。僕は彼ほどには、生活に必要なものを自分でつくることに、時間と力を注げるとは思えないからだ。でもだからといって、それをただ「彼にとっての正しさ」に矮小化してしまうことも、大切なものを取りこぼしてしまう気がする(ところでモリ君自身も最近は、自らの「ジャスティス」をただ主張するだけでは、物事は変わらないと考えるようになったという。ただしここではモリ君自身の考えを知りたいので、それが強調されている箇所を引いた)。

軽トラで畑へ向かう。2017年9月撮影

野生とロマン

モリ君の考えをもう少し別の側面からみてみよう。「小屋を建てる」2014年5月10日の投稿、アルバイト先の左官の仕事について語っている箇所だ。

バイト先の左官屋では、この世界にはどのような土があるのかという、その地点から仕事が始まる。/この鳥取県中部にどういった土があるのかを観察し、その土を使い、藁を混ぜ、発酵させ、自ら練って壁を作る。そこには世界に対して自分の野生を発揮することのできるロマンがある。[中略] 芸術としての左官は、僕に「世界に存在する素材によって家を建てることができる」というロマンを抱かせ、同時に「その視点、発想、環境を維持せよ。」という責任を持たせる。

「野生」「ロマン」「責任」といった言葉が、彼独特の仕方で、左官という仕事に結びつけられ語られている。自分でつくるということが、その本質の部分では何を意味するのか、ここでモリ君は考え発信しようとしている。それは、実践者だけに初めて見えてくる世界なのかもしれない。

モリ君の畑。2017年9月撮影

でも一つだけ、筆者には、自分のしていることでモリ君に近づけそうだと思うことがある。いま僕は京都に住んでいるのだけれど、飲んだり料理に使ったりする水を、近所の神社に汲みに行っている。北白川にあるその神社をはじめ、京都市内にはいくつも湧き水が汲める場所があり、利用している人は多い。汲みに行く理由は、単純に水道水よりも美味しいからだけれど、通い始めて、それ以外の感覚も得るようになった。

水汲みに行くと、なにか水道水を使うのとも、ペットボトルの天然水を買うのともちがう手応えがある。言葉にするのは難しいけれど、それは「かかわっている」という感覚だ。でも一体何にかかわっているのだろう。それは、まずあの場所で汲める水であり、それが湧いている神社とその裏に続く東山、また逆方向へ広がっていく京都の地面、つまりそういった自然、あるいはもっと言うと、この世界を素材として成り立たせている「始原的なもの」(1)、そういうものにふれる感覚だ。

そこには、単に貨幣によって購入するのとは異なった、ただ生きながらえるためにはする必要のないことを自ら選び行う、主体的・能動的な選択がある。そしてまた、企業もメディアも通すことなく、自らの力で自然(「始原的なもの」)に働きかけ、それと交わっている感覚がある(それは、自然と自分を互いに変化させるという可能性も含んでいる)。京都という土地の水を自らの体に入れ、それによって生き、その流れのなかに入ること。それは僕にとって喜びであり、貨幣のような既存の枠組みでは計測できない豊穣さと自由(「野生」)がある。

それを知ってしまったら

そして「責任」、というかそれを意識し引き受ける「責任感」は、そういうところに生まれてくるのかもしれない。自らが主体的に選んだからこそ、そしてそれがシステムの与えるものよりも豊穣で自由であるからこそ、それを守っていきたい、守ろうと思える。もしそれが何かを損なう場合には、その状況を変えようとする。自らの責任を意識し行動する感覚が生じうるのは、このように主体的な選択がなされた後なのではないだろうか。

もちろん僕はただ水汲みという、日常的で些細な習慣を行っているに過ぎない。ここからモリ君の実践をすべて理解できたなどとはいうことはとてもできない(彼の場合、自然にふれる側面だけでなく、それを使って自らつくり上げるという側面も重要だ)。けれど、僕が考えていることは、モリ君の生活とつながっているのではないか。そう思うし、筆者以外にも、この感覚についてどこかで共有できる経験を持つ人がいるのではないだろうか(他方で、自然への没入が過度に強調されると、それは「個」の抹消にもつながりかねない。この点についても留意しておく必要がある)(2)

資本主義というシステムへの依存をできる限り減らしそこから独立すること、そして自然へ直接かかわり、それによって世界をつくり上げること、それを享受すること。この二つの側面が、モリ君の実践の大きな可能性であり条件であるように思う。誰もがいきなり彼のような生き方をすることはできないだろう。でもそこに示された可能性に対して、つねに自分を開いておきたい。

このコラムを書いていて、モリ君の言っている「責任」の意味が、わかるようでわかりきれない気がして、彼に直接、その言葉で言おうとすることを訊ねてみた。するとこう応えが返ってきた。システムによって与えられるものより、よいものの可能性に気づいてしまった以上、それに対して目を瞑ることは、自分自身への裏切りになる、だからそれをすることは、自分自身への責任なのだと(3)

モリテツヤという人間の生き方を知ってしまった以上、僕はそのことに対して、彼の言う意味での「責任」を感じるようになってしまっている。だから、僕はたぶん、今のまま止まってはいられないのではないか。そういう気がしている。厳しくもあるけれど、それはきっと、社会をより楽しく、自由で、生き生きとしたものにしていくから。

***

その後とこれから

モリ君は元倉庫の改修を終え、さらにその裏に自分の住居として小屋を建て、当初予定していたFOREST BOOKSから「汽水空港」と店名を変更し、2015年に汽水空港をオープンした(この時期のモリ君の様子は、尹雄大さんによるインタビューに詳しい)。しかし隣の物件も改修し、より広いスペースを作ろうとしていたところ、2016年に鳥取県中部を震源とする大きな地震が起こった。改修中の建物は使えなくなり、既存の店舗も大きな被害を受け、現在は修理・改修のため休業中だ。2017年春ごろの再開を目指している。Twitter(@tm_forest)、Instagram(汽水空港)でその様子を知ることができるので、ぜひフォローを。

中森監督は『BOOKSTORE』の続編など映画製作の活動と松崎ゼミナールの運営、また地域で映画の上映会の活動も行なっている。「自治」に強い関心を持つという監督は、地元湯梨浜町の五カ年計画の評価委員も務めている。自らスペースを作る一方、その活動を通して、最近は既存の公的制度への関心も深めているという。『BOOKSTORE 移住編』のDVDは現在も販売中で、上映会を開催することも可能だ。松ゼミカルチャースクールの上映会には一般参加も可能なので、ぜひその機会には松崎まで足を運んで、『BOOKSTORE』の空気に実際に触れてみてほしい。

写真:丸山希世実

(終わり)


1. この点については、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスが示した概念から示唆を受けている。レヴィナス『全体性と無限』上巻・第二部(岩波文庫)参照。
2. レヴィナスは、ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺について深く思考した哲学者だが、ナチスの思想と、「始原的なもの」を享受する農的なあり方とのつながりを見ており、「始原的なもの」について手放しで賛美しているわけではない。そのことについても、今後どこかで考えられたらと思う。
3.「責任」については「おうちマガジン」でモリ君を取材した著者も注目している。


 今回の作品 ドキュメンタリー映画『BOOKSTORE 移住編』
監督・撮影・編集:中森圭二郎
構成協力:小町谷健彦
題字:岩瀬学子
制作・発売・配給:映像レーベル地球B
2013/カラー/デジタル/SD/78分

ライター

nashinoki

1983年、鳥取市河原町出身。鳥取、京都、水俣といった複数の土地を行き来しながら、他者や風景とのかかわりの中で、時にその表面の奥にのぞく哲学的なモチーフに惹かれ、言葉にすることで考えている。