時間を知ることの意味:
「私はおぼえている」を見て #3
鳥取に暮らす人のオーラルヒストリーを映像で記録する現時点プロジェクトのシリーズ「私はおぼえている」が、10月9日に山形国際ドキュメンタリー映画祭でオンライン上映されることになりました。その中の2篇が春にオンライン配信上映された際、映像を見て考えたことを綴ったnashinokiが、続けて考えたことを寄せています。
春にオンライン配信上映されたもう一つの作品である竹部輝夫さんの語り(「竹部輝夫さんと中津の記憶」)は、シリーズの中でも一番長く、作品そのものも例外的な雰囲気を湛えている。ここでは、この作品について考えてみたい。
映像はまず、竹部さんと思われる声が、彼の暮らす中津集落(1)へ向かう曲がりくねった道を進む光景に重なってはじまる。緑の眩しい道をカメラはゆっくりと動いていくが、道は何度もカーブを繰り返し、その時間がしばらく続く。語り手の声は少しかすれていくらか重みも感じられ、見ていると筆者は、少し車酔いをするような感覚を抱く。まるでその道程の長さが、時間をどこかへ遡行しているようでもあり、未知の世界へ連れて行かれるようでもある。
竹部さんは学校を出た後教師の勧めで満鉄(2)に就職し、15歳か16歳の頃大陸へ渡っていた。語りがちょうど満州に到着したところで、カメラは「中津」と書かれた標識を映し、竹部さんの暮らす中津集落に着いたことがわかる。同時に映像は竹部さんが満州にいた頃の白黒の写真を映し、カメラと視聴者が中津に着いたことと、竹部さんの満州到着が重なるように進んでいく。
そこではじめて、語っている竹部さんの姿が画面に映される。竹部さんの顔や、部屋にあるこたつや冷蔵庫などの家財道具は日常的な雰囲気を感じさせ、見る者は少し安心するような感覚を抱くが、語り手や語られる内容、中津という場所も視聴者にとっては未知であり、安堵という気持ちとは少し違っている。これからどこに連れていかれるのだろうという、不安と期待で宙吊りになったような場所に、見る者はいる。
途中には、森の木々や家屋など、中津の村の風景と思しき映像が挿入される。「私はおぼえている」の全作を通した特徴となっているのは、語り手による記憶の語りに、語りの舞台となっている場所の風景が、映像として挿入されている点だ(3)。その風景は、語られる記憶がどのような土地から生まれてきたものなのか、またその記憶が今どういう場所に存在しているのかを、表そうとしているようにも思える。
「私はおぼえている」の各篇の映像は、基本的には語り手の回想と、語られている場所の現在の風景という、現在を軸に過去に遡るよう構成されている。しかしこの竹部さんの語りでは、ときにその風景が、現在の光景であるはずなのに、語られている過去の、しかも満州の風景であるかのように見えた瞬間があった。鮮明なカラー映像で当時の満州の記録が残っている可能性は考えにくく、またこれまでこのシリーズで写真以外に過去の映像が使われることはなかったから、映された光景を、筆者は事実として過去の大陸の光景と認識していたわけではなかったと思う。にもかかわらず、その光景に、筆者は語りの中の満州を見ていた。それはとても不思議な体験で、しかしどうしてそのようなことが起こったのか、理由が全くわからなかった。
「私はおぼえている」を見ていると、例えば「小谷重信さんと海の記憶」に出てくる波のうねりや、「濱根良太郎さんと砂地の記憶」の砂地と木々の光景など、竹部さんの語り以外でも、見ているとそれが現在という時間を越え、風景が孕む時間の奥に入り込んでいくように感じる瞬間があった。撮影を行なった波田野州平監督も、以前あるインタビューで制作の動機について、そこに時間の層を感じるような風景を見たいと語っていた(4)。語られる記憶とともにある風景は、確かにそこにとどめられた過去の時間を、見る者に感じさせることがあるのかもしれない。
とはいえ、全ての風景の映像に、同じように語られた記憶の時間が、見出されるわけではなかった。家屋や建物などの人工物が風景に現れる場合、それを作り、使用する人間の存在をどうしても感じさせ、何かその光景から、見ている自分自身、あるいは他者たちの存在がはね返ってくるような感覚があった。それらはその光景を見ている歴史的時間のある一点に、見る者の感覚を固定させる力をもつように感じられる。例えば「牧田智子さんと両親の記憶」で映像に映される現在の赤碕(5)の街並みを見るとき、語られる記憶を聞きながら、筆者はその背後に以前の町の景色を想像することはできるが、そこには「想像」という、見る側のわずかな能動性が必要になるように感じられた。
しかし先ほど言及した「私はおぼえている」のいくつかの場面に現れていた、木々や草、波や土といった自然による光景には、もっと直接的に、見る者を現在とは異なる時間に導き入れるような感覚を筆者は抱いた。何の人工物もない山の緑だけを見ていると、それがどの時間に属するものなのか、現在なのか過去なのかと考え判断することが、無意味に、あるいは不可能に思えてくる瞬間がある。木の年輪が年を経るごとに幹に重なっていくように、自然にも時間は積み重なるが、それらはやがて朽ち、新たに芽生え、繰り返し循環していく。その一つ一つの存在に明確な境界はなく、無限に連続しているようにも感じられる。それらは人間による企図や目的とは無関係に、つまり人間が生きる歴史的時間とは無関係に、ただ存在している。その存在に理由はなく、またそうであるがゆえに揺るぎない。
竹部さんの語りに映される森の光景を見ていて、筆者はただただ記憶に導かれた自身の思念が、そのまま光景の奥にずっと分け入っていくような感覚を抱いた。それは途中で風景の中に人間的な意図を発見し、そこで認識が止められるということがなく、無限にその光景の中を進んでいくことができるように思えた。だからこそ、竹部さんの語る記憶の中の満州の風景を、筆者があの森の中に見出すということが、起こりえたのではないだろうか。
自然には、人間の記憶を読み込むことを可能にする、ある種の受容性が備わっているように思える。とはいえそのことはまた、映像を見る者が風景から読み取ることのできる時間が、それについて語られる記憶、つまり言葉によって創られていることを意味してもいる。
風景に見出される時間は、必ずしもその場所で起こった出来事の記憶とは、限らないのかもしれない。「私はおぼえている」を見ることを通して、筆者はそう考えるようになった。とはいえ、その風景には、記憶を語る者の切実な何かが込められている。そのことも確かだ。
〈おわり〉
写真:河原朝子
1. 鳥取県東伯郡三朝町中津
2.南満州鉄道。1906(明治39)年に設立された、日露戦争でロシアから獲得した南南州の鉄道等を経営する半官半民の国策会社。後に鉄道以外の部門にも進出し、日本の中国侵略の拠点となった。1945(昭和20)年の日本敗戦により、中国が接収した。
3.「私はおぼえている」を何度か見ていると、語りの時間はずっと流れていくのに、音だけ聞いていると、語られる内容はそれほど滑らかにつながっているわけではないことに気づく。その間を、おそらく途中に差し込まれる風景がつないでいる(語り手の所有する写真が挿入されることもある)。その意味でも、この作品で記憶を支えているのは、土地の風景なのかもしれない。
4.鳥取大学地域学部附属芸術文化センターで2020年度に実施された連続講座「ことばの再発明」の中のプログラム、「フォーラム① 鳥取で出会う表現と言葉」でのインタビューより。
5.鳥取県東伯郡琴浦町赤碕
山形国際ドキュメンタリー映画祭2021
日本プログラム
10月9日(土)16時30分〜
『私はおぼえている』(2021/224分/監督:波田野州平)
カメラに向かい鳥取の土地につながる記憶を語る10人の登場人物。
戦前から現在まで個々の人生の記憶が1本の映画を編み上げる。
チケットの購入・上映の詳細は下記リンクをご確認ください。
https://online.yidff.jp/film/i-remember/