本棚帰郷 ―鳥取を離れて #10
『The Seed of Hope in the Heart』(2)
自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本や作品を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。今回は、既出の『BOOKSTORE』を撮影した中森監督が、昨年鳥取の湯梨浜で上映した映画、『息の跡』に関係する本『The Seed of Hope in the Heart』を取り上げる2回目。
震災当日のこと
佐藤さんの本の内容を、部分的だが紹介していきたいと思う。本書の内容は、大きく二つに分かれている。第一部は、震災当日のことを中心に書かれており、第二部は、3.11の震災後から2017年まで、佐藤さんがどのように生きてきたのか、そして被災後の陸前高田の様子が描かれている。
第一部は震災の数日前から始まる。その頃、佐藤さんは、たくさんのカラスが飛ぶのを見かけたり、川から魚がいなくなったと聞くなど、周囲の自然に異常な兆候を感じていた。また3月11日の二日前、9日にも地震が発生していた。その際津波警報が出されるが、弱い津波の警報にはこの辺りの人は慣れており、佐藤さんもその時はそれほど気にしなかった。
3月11日午後2時46分、佐藤さんは街中の包装用品を売る店の春のセールで買い物をしているところだった。その時強い揺れが起こり、棚がひっくり返って商品が散乱し、その店の中はぐちゃぐちゃになる。店の外では、水道のパイプが壊れたのか、道路から水が噴水のように噴き出していた。揺れが続くなか、なんとか車を出した佐藤さんは、奥さんと店のことが心配で、すぐに自宅と店舗のある場所に戻る。この時はまだ道路は混んでおらず、平和な田園風景が見えていた。余震は続いていたが、家に着き奥さんの無事を確認すると、そこで津波警報が発令された。しかしその時は、津波は海から約2.5km離れた店までは来ないだろうと考えていた。隣に住む鈴木さんの様子を心配して見に行くと、逆にその家族から母親の安否を尋ねられ、心配になった佐藤さんは、奥さんと、国道を内陸部のお母さんの家へ向かうことにする。
そこからお母さんの家に着くまで、その途中に通った場所のことが記録には書かれている。山や川はいつものように穏やかに見えたが、信号が消えコンビニは停電していて、店内で混乱は起こっていなかった。停電を見た佐藤さんは、急に店の温室で育てている苗のことが心配になり(温室では電気を使っていた)、店に戻りたいと奥さんに言うが反対される。その頃、道が混雑しはじめ、佐藤さんは妙な雰囲気を感じてコンビニを出る。ガソリンがなくなりかけてスタンドに入ろうとするが、停電と渋滞の様子を見て、咄嗟の判断でやめている。記録を読んでいると、本能的な何かに動かされて、佐藤さんは津波から逃れることができているように感じる。
運転中に聴いたラジオでは、津波を3mとかなり低い予測で伝えていた。その先の廻館橋(Mattate Bridge)付近では、雷の前触れのように空が暗くなっていて、後方では車のエンジン音とは違う奇妙な音が聞こえたが、二人は後ろを見ずに無言で先へ向かった。この橋のところで道が二手に分かれ混雑が緩和したので、順調に車を走らせ、その先の金成橋(Kannari Bridge)を通り過ぎた。その途中、沿岸部に向かって、逆方向に走って行く車を何台か見たという。もうここでは普段通り車が行き交っている。佐藤さんはそう思った。しかし、津波は最終的にこの金成橋まで到達した。ここは海から約10kmの地点で、付近は海抜25mだったが、津波は気仙川(Kesen River)を遡上し、最終的にここまでやってきたのだ。
午後3時半頃、佐藤さん夫妻は、海岸から約13km離れたお母さんの家まで無事にたどり着く。そこではいつもと同じように平和な山の風景が見え、川の静かな流れが聞こえている。この時、佐藤さんはまだ津波のことを知らなかった。お母さんも無事で、やってきた佐藤さんの姿を見て涙を流す。その晩、二人はお母さんとその場所で過ごすが、余震が続き家にいるのが不安になり、ビニールハウスで眠ろうと外に出る。しかし3月の夜はやはりまだ寒すぎ、再び家の中に戻ったという。
津波で亡くなった人たちのこと
ここまでが、佐藤さんが2011年3月11日にたどった足取りとしてこの本に記されていることだ。書かれているように、佐藤さんは震災当日、津波に遭遇せず、避難することができた。佐藤さんが通った何分か後、地震発生から30〜50分後に(1)、これらの場所のほとんどは、津波に襲われ、多くの人が亡くなっている。
ここまで筆者は、佐藤さんの道行きだけを抜き出して記したが、震災当日のことについてこの本の第一部に書かれているのは、著者が実際に見たものだけではない。佐藤さんがあの日通過した場所で、夫妻が通った後に起こった出来事も記されている。
そこには、津波が襲い、多くの人が亡くなった。だからこの本は、単に著者の経験の記録ではなく、可能な限りあの日陸前高田で起こった出来事を記し、残そうとしている。津波で亡くなった人たち、知人であってもそうでなくても、記録し、祈りを捧げている(佐藤さんが自ら書いた記録を読み上げ、その後手をあわせる姿が『息の跡』には映されている)。
気づいた時には、彼らは怒りくるう海の上だった。誰かが助けを叫んだ。「助けろ!助けろ!」他の人たちが、ここでもそこでも同じことを叫んでいた。たくさんの魂が、あの世へ旅立とうとしていた。私にはそのイメージが浮かぶ。この文を書いていて、彼らに向けて叫びたい。「逃げろ!逃げろ!」叔父や叔母や、他の人々を助けることができなかったことを、悔やんでいる。本当に。(2)
佐藤さんが通り過ぎた後に何が起こったか、それについては、できうるならば、ぜひ直接この本を読んでほしいと思う(3)。
沿岸部への帰還
地震の数日後、佐藤さんはお母さんの家から、沿岸部の自宅と店舗の様子を見に一人で街へ向かう。この時には市街地が津波で流されたことを知っていたが、もしかしたら店が残っているかもしれないという小さい希望を、佐藤さんはまだ持っていた。そうして国道を再び市街地へ向かうが、途中で道路が瓦礫に埋まり車が通れなくなっていたため、迂回のルートを取り、さらにその後は車を降り、歩いて沿岸部へ向かった。しかしその先で徒歩でも国道が通れなくなったため、瓦礫を避けて小高い山へ登る。そこは自衛隊のキャンプ地になっていて、何か普通ではない雰囲気を佐藤さんは感じる。それからまた山を下りて国道に戻り、市街地を見渡せる地点まで急な上り坂を登っていく。佐藤さんの呼吸は荒くなり、額からは汗が吹き出る。そうしてついに、そのてっぺんからまた少し下ったところにある高田一中 (4) へ出た。そこは街の様子を一望できる場所だった。その時まで佐藤さんは、店と自宅は無事だと信じようとしていた。
私は呆然とした。慣れ親しんだ景色は、消えていた。街は全て、津波の中に消え去った。「なんてことだ、これは」。私は風景をそれと認めることができなかった。それは私が知っていたものとはまったく違っていた。「これは地獄への入り口か!?」黒色の絶望が、破滅した街の全体を覆っていた。燃え尽くした廃墟のように、暗い灰色の蒸気が、空に昇っていくのが見えた気がした。津波という死神が、あらゆるところで餌食を求めているようだった。見慣れた風景は、薄気味悪く壊滅した、広大な土地に変わっていた。(5)
瓦礫の山が、大きな鎖のように横たわっていた。私の種苗店はどこにも見えなかった。希望はなくなった。私は悲しみでひれ伏した。「嘘だ、そんなはずはない!」心の底で叫んでいた。膝は地面についた。私はショックで動くことができなかった。「ああ、もう未来はない、これまでの日々は、決して戻らない!」突然目から涙が溢れた。私は力なく手を握りしめた。(6)
内陸部のお母さんの家から戻ってきた佐藤さんは、このような街の光景を見た。
一体それは、どのような経験なのだろう。筆者はここで引用したような佐藤さんの言葉から、その状況を認識し、想像することはできる。その激しい気持ちも伝わってくる。けれど、たとえば自分の故郷がもし同じように、突如として目の前から消え、親しい人たちが亡くなってしまったら。そのことを、うまく想像することができない。
人は、自らの外にある多くのものによって生きている。口に入れる食物は自らの体を成し、親しい人の愛は、その心を成すだろう。だが、そのように強く存在を意識できるものだけでなく、毎日見ている街の通りの景色や、遠くに見える木々、家やその中の家具も、その人の経験の一部となってその存在を構成している。それらのもののうちの多くが、一瞬でなくなってしまったのだ。
けれど佐藤さんは、震災の数ヶ月後には、津波で全てが流された、前に店のあった場所で、佐藤種苗を「佐藤たね屋」と名前を変え、再開している。一体どうして、佐藤さんにはそんなことができたのだろう。
〈続く〉
1.「いわて防災情報ポータル」参照。
2.p.11. 佐藤さんは、津波で親族を亡くしている。
3. 最初筆者は、ここでその部分についても紹介することを考えていた。けれどどうしても書くことができなかった。少なくとも今、筆者には、あの日陸前高田で亡くなった方たちについて書く言葉を、自身で支えることができないと感じる。そうである以上、そのような言葉を記すことはできなかった。
4.陸前高田市立高田第一中学校。津波の被害を免れ、被災者の避難所となった。
5.p.90
6.p.91
今回の本 『The Seed of Hope in the Heart』5th edition
著:Teiichi Sato(佐藤貞一)
発行:2017年