本棚帰郷 ―鳥取を離れて #15
『The Seed of Hope in the Heart』(7)
自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本や作品を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市で種屋を営む佐藤貞一さんが、母語ではない英語で書き続ける本『The Seed of Hope in the Heart』を取り上げる7回目。
出来事から時間が経って
前回のこの連載を書いてから、少し間が空いてしまった。前回前々回を除いて、これまで佐藤さんが経験した地震と津波、またその後の生活の再建に関する、本に記された記述を紹介してきた。以前は、急速にこの社会から過去にされつつあると感じた、被災地の現状を報告するような気持ちで書いてきたけれど、時を経るにつれ、2011年の震災が「現在」ではなくなったという感覚を、筆者自身も抱くようになった(1)。それにつれ、佐藤さんの言葉が以前と異なる距離に、より客観的に眺められるものになったとも感じはじめている。とはいえ筆者には、『The Seed of Hope in the Heart』の中で、まだ書き残したと感じていることがある。それについて、いまどういう風に言葉を紡ぐことができるだろう。もう少し、この本とともに考えてみたい。
長い間、佐藤さんの本を読みながら、感じていたことがある。佐藤さんは震災後、津波で流されてしまった陸前高田のあちこちを調べてきた。この連載でも紹介した天神大杉とその樹齢から判断される慶長三陸津波の影響や、プレハブ店舗の井戸を掘る際、掘った地面の地層に、かつてこの地であった災害などの出来事が刻まれていることを読み取っている。それ以外にも、むかし陸田高田で起こった気仙川の流路変化を起因とする諍いを、命をかけて仲裁した村上道慶という人物がいたことを調べ、記録に残している(2)。このような佐藤さんの姿に触れるたび、筆者はいつも、不思議な像がそこに結ばれるのを感じていた。読んでいると、津波により人々が築いてきたものがさらわれ、裸になった地表を歩き、立ち止まって大地に静かに耳をつける、佐藤さんの姿が浮かぶのだ。
以下では、一本松が生えていた高田松原について佐藤さんが調べた記述を紹介し、なぜこのようなイメージが自分に印象深く残っているのか、考えてみたい。
高田松原の歴史
この記事でも以前に触れた高田松原は、2011年3月11日の津波で、奇跡的に残った一本の松を残して、すべて流されてしまった。佐藤さんはそこに自分の足で訪れ、折れた木の状態を確認し、なぜその松一本だけが流されずに残ることができたのか、その原因を合理的に明らかにしようとしている。その過程で、高田松原の成立とこれまでについても知ることになった。
高田松原には津波の前、およそ7万本の松が生えていた。植林が始まったのは17世紀中頃。人々は最初、近隣の山で採取した欅や杉、クロマツやアカマツなどの苗を植えていた。植えられた苗は全部で6千本だったが、自然淘汰などの理由により、松だけが残った。さらに18世紀になると、松坂新右衛門という人物が、そこへ私費を投じて植林を行った。作家の松本健一によれば、松坂新右衛門定宣(1671−1754)はもともと気仙川上流で金鉱山を営んでいたが、金の産出量が低下したことを受け、人々の雇用と地域の産業振興のため、気仙川の河口付近で新田開発に着手した(3)。開墾・干拓した土地を潮や砂から守るため、新右衛門は海岸に松を植えた。彼の時代には、すでに松の苗を生育する技術が確立されており、収穫した松かさを苗床で育て、沿岸に植林を行った。佐藤さんの先祖である長作と左五右衛門もまた、山間地でそのような苗を育てていたという(4)。
佐藤さんは先人たちの成し遂げたことをさらに知るため、流された松の根から年輪を測定した。松原には大小の木が混在していたが、樹齢の平均は約90年だった。また2012年9月には腐朽した一本松が伐り倒され、その年輪も数えることができた。不明瞭な部分はあったが、そこには1868年、1896年、1933年、1960年の津波の毎回5−6mの浸水の跡が刻まれていた。佐藤さんは不明瞭な部分も含めて年輪をおよそ185と数え、京都大学の調査結果に基づく市の発表では、樹齢は173年とされた。高田松原には一本松よりも樹齢が上の松はなかったから、この場所は2011年以前のおよそ170年間、15m以上の巨大な津波にはあっていなかったことになる。しかし最初に植林が行われてから、一本松の世代の木が植えられるまでの約170年間に植えられた木は、完全に消え去っていた。一般的に松の寿命は長く350年以上生きることができるため、17世紀から植林が始まったのだとしたら、もっと樹齢の高い松があるはずだ。高田松原の木の樹齢が予想よりずっと若かったのは、時代を経る中で強風や海水の浸食、そして何よりも、津波によって多くの木が枯れていったからだろう(5)。
植林当初から生き残った松は一本も残っていなかった。しかし2011年以前、高田松原にはいたるところに松が生えていた。それは、津波に遭うたびごとに、人々が我が身を投じて松林を復活させ、維持しようとしてきたからだろう。そう佐藤さんは考え、この本に記している。
過去という異質な時間
写真家の港千尋は、風景を論じた近年の著作の中で、東日本大震災後の風景と時間について、次のように述べている。
廃墟は英語でruinだが、この言葉の語源には「崩れる」「倒れる」というような、急激な変化を意味する言葉が含まれる。日本語では「ご破算」の語感に近いかもしれない。持続していた物事が一瞬停止し、別の状態に変わってしまうという意味である。震災直後の被災地で多くの人が感じたのは、流れていた時間の「切断」であった。
震災後の風景とは、その切断面に現れた何かである。それを総合的に理解するのは容易なことではないが、風景を空間的な概念としてとらえていただけでは見えてこない。この場合の切断面とは、何よりもまず時間的な切断面のことだからである。(6)
考えてみれば当然のことだが、ある程度の人が暮らしている場所は、それぞれが相応の時間の積み重なり、つまり歴史を持っている。とはいえ、人々が普段忙しく日常生活を送っている場所では、そのようなことに目を留めることは少ない。昨日までの時間と今日、そして明日の時間は連続して続き、その連なりの中で人々は生きている。時に過去の歴史を学ぶことはあっても、それは目の前の、日常の時間的連なりの中に埋もれて一体化し、切実に身に迫ってくることは少ないからだ。
しかし陸前高田をはじめ、震災により壊滅的な被害を受けた地域では、震災以前の時間の連続性を感じさせる人工物や自然による風景は、その多くが破壊され瓦礫となり、流され、消えた。それまでの時間の連なりが、突然断ち切られてしまった。港が言うように、風景の切断とは、その風景とともに持続する時間の切断でもあったのだ。冒頭で述べた佐藤さんのイメージは、どこかこの世界の間(はざま)にいるような印象を、筆者に与えていた。時間が中断された、この世界の内でありながら外であるような場所で、佐藤さんは一人、周囲の手触りをたしかめているようだった。
その中で佐藤さんは、陸前高田の土地を歩き続けた。自然を測り、過去の津波の経験を想像した。するとそこには、過去に土地の人々が経験した時間が見出された。それは震災直前まで人々が暮らしてきた時間とは異質の、もっとずっと遠い時間だ。連なっていた時間が切断されることで、それまで一本の線状のようにあった時間の遠くの一部が、異質なものとして佐藤さんの前に現れた。震災前の時間は、そのようなものの上に立っていたのだ。
先人たちは、津波に完全に打ち勝ったわけではない。土地の自然に刻まれた過去の人々の姿は、生き残った者に、津波を防ぐ無謬の知恵を授けたわけではない。それでも、過去の人々の姿が、すべてが流された土地に立つ佐藤さんにどこか重なるようにして、影のようにその背後にあることで、僕は読んでいてとても救われる気がした。自然に刻まれた人々の痕跡は、津波によっても消えなかった。消えないものがあるということ、それ自体が希望のようだった。
すべてが流された荒野で、自然あるいは世界は、人間から切り離されてしまったもの、そこにかかわりを持ちえないほど単に物質的なものに戻ってしまったようだった(7)。しかし文字資料や人工物とは異なる、高田の土地に刻まれていた先人たちの時間は、直接的に佐藤さんに触れた。剥き出しとなった自然の中に、その時間が包むようにあることで、よそよそしくなった世界は、いくぶんか近しいものになるようだった。異質な時間との接触は、震災後の時間、中断してしまった時間を、わずかに前に押し出し、動かすようだった。
大船渡線の記憶
ここまで書いてきて、筆者の頭に浮かぶのは、津波で破壊された町の時間のことだ。筆者が初めて陸前高田を訪れたのは2012年、過去の町はすでに流され、写真ですらそれを見ることは叶わなかった。写真を収蔵していた場所の多くも、津波の被害にあっていたのだ。
『The Seed of Hope in the Heart』の中で一箇所、過去の町の情景が描かれた一節がある。津波で流された、大船渡線と陸前高田駅のことが書かれている箇所だ。大船渡線は全長100kmの単線、2011年までの70年間、陸前高田を走った列車だった。車窓からは美しい海と山の風景が見え、鉄道は内陸部から山とトンネルをくぐり抜け、急な崖沿いを走って、気仙川にかかった鉄橋を通り抜ける。そうして陸前高田駅に到着する。
この鉄道は、たくさんの人々の思い出を運んだ。そこには数え切れない出会いと別れがあった。そして、たくさんの喜びと悲しみも。十八の時、私は農業研修のため陸前高田を離れた。故郷の豊かな自然と、やさしい人々の鮮やかな記憶を抱えていた。列車の中で、私は郷里から離れつつあることを、寂しく感じたことを覚えている。
盆と正月の休みには、陸前高田駅で両親に会うことを楽しみにしていた。「母さん、ただいま!」「おかえり」。母と私はそう言葉を交わした。そこにある気仙訛りの響きが、故郷に戻ってきたという、心地よい風を感じさせた。その頃の駅は人で溢れていた。たくさんの人たちが、愛する者との再会を喜んでいた。(8)
大船渡線と陸前高田駅の描写は、この本の中で唯一、震災後の時間を貫いて、もう見ることができない震災前の陸前高田を筆者に見せてくれる。佐藤さんは震災後、津波で流された土地で前を向いて生きるため、震災前の記憶を投げ捨てようとしたと書いている(9)。だからそれを思い出すことは苦しいかもしれない。そう思いこの箇所を取り上げることを、最初は躊躇していた。それでも佐藤さんが書いてくれなければ、筆者はこのような時間がかつて陸前高田にあったことを、知ることができなかった。こんなことを自分が言ってよいかわからないけれど、ここに描かれた瞬間を、愛おしく思う。初めて陸前高田を訪れてから、流される前の町の姿を、ずっと見たいと思っていた。
過ぎ去って戻らない時間を完結させること、それに別れを告げること。それが震災後、生き残った者に必要なことだったのかもしれない。そしてまた、そうすることで、佐藤さんをはじめ津波で多くのものを失った人々は、震災後の新しい時間を生き始めることができたのかもしれない。けれど同時にまた、震災前の陸前高田駅の情景は、流された後の町しか知らなかった筆者に、そこにはたしかに震災とは別の時間があったということを教えてくれた。その記憶は、その土地へ後からやって来る者を、もう見ることができない町の時間へと導いていく。
その町を、僕は知ることができない。それでも、知りたいと思う。なぜなのだろう。それは筆者自身もまた、佐藤さんとは別のところから、この震災という出来事を、超えていきたい、そう思っているからなのだ。そのことに気がつく。
〈続く〉
1.もちろん、福島第一原発による放射能汚染など重大な問題は継続しているが、一つの塊としての震災という出来事から、個々の問題が独立してきている。
2.村上道慶(どうけい)(1559-1644)は、祖先は因幡の出身(ここにも鳥取とのつながりが見える)、地元で西光庵という塾を開く武士だった。気仙川を挟んだ今泉地区と高田地区の住民の、洪水による川の流路変化を起因とする争いを、自分で自身の首を切り落とす自刎(じふん)という方法で解決した。道慶は川の中州で自らの命を断ち、自身の体が流れ着いた方に鮭の漁業権があるとし、結果として首は片方に、胴体はもう一方の岸に流れた。彼の死を見た両岸の人々は、道慶の勇気に感嘆し、彼を死に追いやったことを悔い、戦の愚かさを理解し互いを尊重するようになった。佐藤さんは道慶に触れながら、危機に際して適確な決断を下し、迅速に実行できる人物として、彼を自身の模範としようとしているように見える。あるいはまた、道慶のようなリーダー(政治家)が現れることを切望しているようにも読める(p.202-209)。
3.松本健一『海岸線は語る 東日本大震災のあとで』ミシマ社、2012年、98-99頁.松本氏は上流と記しているが、新右衛門の末裔の方と仮設住宅で一緒だった佐藤さんによると、この金山は玉山金山といい、気仙川の上流ではなく支流沿いだったという。
4.p.138.
5.p.139-141.
6.港千尋『風景論 変貌する地球と日本の記憶』中央公論新社、2018年、23−26頁.
7.陸前高田出身の写真家・畠山直哉は、この状態のことを「歴史以前の時間、『先史=自然史』と呼ばれるような時間」と言っているように思われる(畠山直哉『陸前高田 2011-2014』河出書房新社、2015年、152頁)。
8.p.154.
9.p.182. 原文は”They tried to throw away their precious memories.” この項の冒頭で引用した箇所の後で佐藤さんは、かつて大船渡線の踏切があった場所で、条件反射的に車を停車させてしまい、「列車が来た!」という幻聴を聞いた経験を語っている(p.154-155)。あまりにも突然以前の風景を失った時、人はすぐにはそれを現実と認識することができないのではないかと想像される。
今回の本 『The Seed of Hope in the Heart』5th edition
著:Teiichi Sato(佐藤貞一)
発行:2017年