田中信宏さん、田中 文さん(COCOROSTORE)♯2
Life is very short. この土地で民藝が成り立つ実験をつづける
倉吉市で「COCOROSTORE」を営む田中信宏さんと、 田中 文さん。今回は、お二人が関わりを持っている「一心焼」についてお聞きします。一心焼を通して実現したい民藝のあるべき姿、そして民工芸に対して抱く思いに迫りました。
信宏さんが「ライフワークとして取り組んでいる」と、カウンターに並べたのは復刻された一心焼の石膏型だった。1953年から始まった一心焼は倉吉市にある知的障がいのある子どもたちが学び生活する皆成学園で製作されていた焼き物。吉田璋也に価値を見出され、北栄町出身の陶芸家生田和孝(1927-1982)が器の石膏型づくりに携わった歴史を持つ。
一心焼が途絶えてしまうのは惜しい、石膏型と登り窯の可能性に気づく
ー 2015年からコロナ禍に入るまで皆成学園で取り組んだ「一心焼再窯プロジェクト」とは、どのようなものですか?
信宏:一心焼の存在は吉田璋也さんの文献で知ったのですが、今は作業されていないことは認識していました。知れば歴史もあり、名だたる方々が支え合い、地元住民も協力し、とても良い活動だったことも分かりました。2000年を境に学園で一心焼は作られなくなっていたのですが、当時「くらよしミュージアム無心」の館長だった田村輝彦さんに相談したところ、学園に話しに行ってみようと提案してくださり、学園長も協力すると言ってくださいました。そこでプロジェクトを立ち上げることになりました。
月に一度、地元の窯元の国造焼や倉吉八幡窯、上神焼に出向いて器作りをしたり、後に学園OBで一心焼を作られていた経験を持つ、九十九正一さんに教わりながら器作りや自由作品など土に触れ楽しむという事を行っていました。
ある時、学園の倉庫に器を作るための石膏型のようなものがあるのだけれどもと、職員さんに案内してもらうとそこにはたくさんの石膏型がありました。
かつて学園で指導していた山里一夫先生のところへ、鳥取民藝美術館の元学芸員の尾崎麻理子さんの案内で伺うことにしました。お話を聞く中で、陶芸家の生田和孝さんとかつての職員によって作られた貴重な型だと知りました(1)。
学園で見つかった石膏型を用いた器作りに挑戦する子どももいました。そうやって作られた作品は毎年くらよしミュージアム無心や当店で作品展を開催し、地元の方に見てもらうことも行っていました(2)。
学園の敷地内には、かつて一心焼のために使っていた登り窯も残っていました。窯を使っていた頃は、学園のあるみどり町の住人たちが、窯炊きを手伝うなど地域との関わりもありました。
この登り窯でいつか焼けたらいいなと考えていましたが、元々老朽化していたこともあり2016年の鳥取県中部地震で壊れてしまったことから再び、窯に火を灯すことは出来なくなりました。いつかどこかでまたそのような器の焼成活動が生まれていくといいなと思います。
一心焼再窯プロジェクトの休止とこれから
文:学園内では器を焼けないこともあって、地元の窯元に行って製作していたこともあります。陶芸家に指導していただきながら、夢中になっている子どもの姿を見ると、土の力を感じました。
でもすべてが順調だったわけではなくて。学園は職員の異動があるので、一心焼を指導する担当者が何年か経つと変わってしまい、それまで取り組んできたことが伝わって行きにくい面がありました。
信宏:卒業生の皆が皆、持ち帰ることが出来なかったのか、子どもたちが作った器や作品が学園のスペースに眠っていたのを見た時は寂しく思いました。
文:近年は、窯元ではなく学園内で製作に取り組んでいました。園内ということもあり、それまで参加していなかった子も気軽に参加出来たという良い面もあったのですが、少し作ると出て行ってしまう子も。
限られた時間であっても、集中して熱心に取り組む子どもたちの姿が嬉しかったのですが、子ども達も色々と忙しくて、以前のようにじっくりと土と向き合うことができなくなったのは残念でもありました。
信宏:そしてコロナが流行し始めると、学園外部の私たちは、子どもたちと器作りをすることが出来ず、プロジェクトは休止しました。
ー 一心焼が再度途絶えてしまう、という状況に追い込まれたわけですね。
信宏:そうですね。このまま途絶えてしまうのは惜しい、再興する可能性はないかと考えて、皆成学園から見つかった50点以上の石膏型を活用することを考えつきました。また、これまでの一心焼の思いや歴史など理解して製作依頼できる窯元が見つかればそこで製作し、当店で販売をしても良いかを学園に相談しました。窯元は湯梨浜町にあるゆりはま大平園の大平焼さんにお願いできたらと思い、事前に太平焼さんへお話に伺った際に一心焼の事もご存じでこの活動に興味を持ってくださっている事も学園に伝えたうえで、返答を待ちました。
その後、皆成学園からも「ぜひ使ってほしい」と、承諾をもらい、いくつか当店で販売しやすい器の型を選びました。型の劣化が激しかった事もあり、石膏型の復元を北栄町にある仏巧舎の石賀善章さんに復元してもらいました。
文:使わないで眠らせておいたら、何も起こらないし、宝の持ち腐れになってしまいますから。
一心焼が持続するための仕組みを作り出す
信宏:ゆりはま大平園の大平焼きで、復元した石膏型を使用してもらって今、製品化に向けて調整をしています。販売で得た収益の一部を皆生学園にも還元することを考えています。
昔の一心焼は、作品を売ることで持続していました。作ったものを、地元のデパートで売って、その収益で材料や道具などを買うといったように。昔、学園が取り組んでいたように作品を販売して、地元に還元することに興味を持っていましたので少し近づけられるようになりそうです。私たちが行っていた一心焼再窯プロジェクトの運営は補助金で賄っていたので出来上がった作品の販売は出来ないという縛りがあり、元々の一心焼の方向性とは違うので、自分が思う理想と違うというチグハグな気持ちはありました。
販売に際しては、皆生学園などの関係先や生田和孝さんのお兄さんからも「活用できるものがあればぜひ活用してください、完成したら教えてくださいね」と背中を押してもらいました。12月にアメリカで開催する当店の展示会に間に合えばと製作を進めていただいています。
文:作品が人の手に渡ることが、一心焼の背景を知ってもらう入り口になります。そこで手渡すのは、ものだけではないんです。子どもたちが一生懸命やっていた歴史があるから、それも伝えていきたいんですよね。
そこから、興味を持ってくれる熱い作り手さんが現れるかもしれないし、ワークショップをする機会も生まれるかもしれません。販売が軌道に乗って、新たな可能性が生まれることが楽しみです。
信宏: お店に皆成学園の卒業生が時々遊びに来てくれるんですが、一心焼の話になると過去の作品作りについて嬉しそうに語ってくれます。ワークショップを再開する時には講師で手伝うよと言ってくれていて頼もしく思っています。
人生は短い。誇れる道を突き進んで、バトンを受け渡す
信宏:COCOROSTOREの名前の由来は、「誇路(こころ)」から来ています。これは「誇れる路」という意味を込めて、作った造語です。
鳥取には、技術を持った人がいっぱいいます。作家や職人が、誇れる道を突き進んでいるから、作品を紹介する立場ですが自分もその道を進んで行けたらと考えました。
望むのは、土、薪、釉薬などの材料すべてに、この土地のものを使用すること。たとえば、知り合いの梨農家さんから剪定された大量の梨の木を分けてもらい、実家の畑で焼いて灰にしました。アクが強いから半年ぐらいかけて水の入れ替えをして釉薬にすることを国造焼さんと実験しています。大平焼さんが興味を持ってくだされば、湯梨浜町は梨の産地なので梨の灰を使った、釉薬を作って焼いてみたいと思っています。
地元でとれるもので工芸が表現できたら、非常に面白い。今はそのための実験をしていると感じています。その土地で調達した材料を使って製作、販売する流れを確立して、使い手やその土地の環境に還元する。この土地の中で持続可能な販売づくりを構想しています。
それは民藝にも通じていると思っているんです。以前、長野県の家具製造会社に勤めていた頃、民藝の精神を叩き込まれました。目指すところまでは、まだまだ時間がかかりそうなんですが、人生とは短いもの。やりたいことをやると決めています。
とはいえ、小さなお店で一人でできることは限られています。作り手や協力販売店など、頼れる人、興味を持ってくれる人とつながり、託せるところは託しながら、色々な方法を確立し、鳥取の工芸がこれからも普及し続けていけばと思っています。
文:人とのつながりや、偶然の出来事が重なって、流れが流れを読んで、人生の糸がちょっとずつ絡まる。COCOROSTOREで感じるのは、そんなおもしろさです。
-2025年3月には、この倉吉に、鳥取県立美術館がオープンします。期待することはありますか?
文:こども時代に出会った心惹かれるものや経験は、その人の生涯にも大きな影響を及ぼしていくと思います。ですので、子どもが参加できるワークショップやギャラリートークがあると素敵だなと思います。
信宏:私自身、民藝と出会ってからもう20年以上経っていますが、知れば知るほどに新しい発見があって、さらに探究したいことが見つかっていく面白さを感じています。県立美術館でも、そこに行けばいつも何か新しい発見があり、帰宅後も自分で調べて深掘りしたくなるような、そんな場になることを期待しています。
〈終わり〉
取材:水田美世、彩戸えりか
(1)尾崎さんのまとめれた一心焼の年表より抜粋:昭和29年~30年頃、生田和孝が京都・五条坂の陶芸家・河井寬次郎の下での修業時代に、腰痛の治療のため実家のある北栄町に戻った時期があり、その際に同郷の学園の斎尾指導員に頼まれて皆成学園を手伝い、石膏型を作られたそうです。(石膏型は丹波に独立してからも制作したとみられる)
(2)「一心焼再窯プロジェクト」について詳しくはこちらの記事をご覧ください。https://www.hinagata-mag.com/report/23827 (ライフジャーナル・マガジン「雛形」)
※この記事は、鳥取県立博物館が発行する「鳥取県立美術館ができるまで」を伝えるフリーペーパー『Pass me!』09 号(2024年9月発行)の取材に併せて2024年8月にインタビューを実施しました。
COCOROSTORE
倉吉市、白壁土蔵群の歴史ある建物を改装し、鳥取の自然の中で職人や作家が生み出した染織品、陶磁器、鍛冶、木竹工、和紙などを展示、販売。良質な民工芸の継承に取り組み、手に取る人の生活をより豊かにするために活動を続けている。
https://cocorostore.jp/