レポート:上映会 かさねるとみえる
当ウェブマガジンtottoにてコラム「気配のかたち」を連載する田口あゆみさんの映像作品上映会が3月28日(土)に開かれました。見えなくても作りたい、関わりたいと映像制作を続ける田口さんの作品上映の様子をお伝えします。
田口あゆみさんの「気配のかたち」は、tottoというメディアを知ってからずっと気になって読んでいた連載だった。「視覚喪失後の世界で撮り続けて変わること/思うことを綴る」と記していた彼女の文章からは、見えないからこそ見えてくる/感じられる世界があり、私達は日々の忙しさや「見える」ということに満足してしまい、世界の見方/感じ方を忘れてしまっているように思えてくる。彼女が紡ぐ繊細さが伝わる文章を通して、いつか彼女の作品を観たいと思っていた。
そんな田口さんの上映会が米子であるという。この日、私は京都に行くはずだったが新型コロナウイルス感染症拡大の影響で鳥取にいた。できうる限りの安全対策をして、鳥取駅から汽車に乗り米子・Studio Sparkへ向かった。
大きなスクリーンとソファ。大人数で、というよりは少人数でワイワイと盛り上がれる秘密基地。Studio Sparkは、そんなシアタールームのように思えた。ソファに腰掛けて上映を待つ。
田口さんの挨拶から上映会がスタート。田口さんのコメントとともに上映順にそれぞれの作品についてレポートする。()内は、制作年。
車椅子でちどり足で(2008)
田口さんが失明前、自分でカメラを回し始めた最初の作品。よなご映像フェスティバルが始まった当初に声をかけてもらい制作することになったそうだ。
田口さんが紡ぐ言葉から始まり、彼女が米子に戻る前に過ごしていた東京での日常、米子にいる家族と過ごす時間などが織り混ざって流れていく。家庭での食事シーンや路地裏、酒場での様子は、懐かしいような気持ちにさせられる。
「食べることをテーマに、自分の好きなものばかり、自分の身の回りのプラスの気持ちを起こさせてくれる風景などを2週間ぐらいで撮った作品。鳴っている音楽も友達の音楽です」と観終わった後、観客である私達に対して彼女は言う。私は、そんな彼女の楽しそうな思いが映像から伝わってきたので、思いは作品に宿るのだなぁ、なんて思ってしまった。
ぬくめると孵る(2019)
視覚障がい者にとっての”歩く”ことをテーマにした作品。昨年行われた第12回よなご映像フェスティバルに出品した作品だ。
「撮り始めた最初の頃は、ただただ楽しく好きなものを好きなように撮っていたのだが、失明後から映像を作るということに迷いを感じた」と言う田口さん。撮りたいと思った時に難しいことがたくさん出てきて、失明後も作品制作を続けていたが、何か目的のある作品を作ろうというよりも「困っている」ということが出ている作品ばかり作っていたとのこと。けれど、昨年作り始めたものからフラットになり始め、作品として出来上がったのが今作だ。
白杖を使いながら画面が動き始める。作中、田口さんは中途失明された方を訪れ、見える前と見えなくなった後の”歩く”ことについての質問をしていく。日常生活において私達は”歩く”ことに対してどれくらい意識しているだろう。私はほぼ無い。近視と乱視が併さった眼だと、寝ぼけて眼鏡をかけ忘れた際に足がおぼつかないぐらい。そんなことを鑑賞中に考えてしまう。スクリーンに映った失明者の方々は、それぞれ”歩く”ことの重要さ、楽しさを語る。彼らが感じている世界を追体験出来るような気がして、”歩く”ことに意識を持つと自分はどんな気持ちを覚えるんだろうか、と考えてしまう作品だった。
かさねるとみえる(2020〜)
作品に作り手の姿はどのくらい表れるのか?という疑問から生まれた作品。地元(米子市近辺)で活躍する映像作家さんたちがインタビューを受け、また作品の一部提供で協力している。 協力:極東アニメーション、国立米子工業高等専門学校放送部、武内カズマ、谷山龍、中村義和。
「自分は『見えない』ということで作家として興味を持ってもらっているが、それはどうなのか、と思うことがある。他方で、自主・個人映画は作家性、作っている人の姿が見えることこそが面白さの一つでもあると思っている」と田口さんは言う。
今回は、そのような側面を作品にするため、制作しているとのことだ。
映像を観終わった後、会場内で観た作品に対するコメントや感想を伝え合う時間が設けられた。
「自分ありきで作ってる映像と観てくれる人ありきで作ってる映像の2パターンがあるように感じた。」
「よくぞ米子の奇人達を集めた。同じタイムラインに並んでいることが不思議。顔とか声とか表情を普段見ることがないので面白い。」
「米子高専の学生の作品は、皆で作っていることが話を聞いた上でよく分かる。そして、若くてフレッシュ。」
作中で田口さんが制作者にインタビューするように、場内で田口さんが私達観客にインタビューを行い、感想が集まっていく。まるで作品と会場の様子が地続きになっているよう。
田口さんは「人の気持ちを聞いてから作品を観ることは、すごくプラスになることだと思っている。『自主映画の見方=よく分からない、難しい』と言われるが自分はそう思わない。理解しようという意識を持つのではなく、あるがままをただ、何も考えずに観たら良い。それに加えて、出来たものをただ観るよりも誰かが作っているということを考えると凄く面白く観えるんじゃないか。自分自身はこの作品を制作している際、一番考えていた。そこが伝わっていると嬉しい」と話した。
この日撮影した映像を作品内に盛り込んで、『かさねるとみえる』の完成となるようだ。私達の意見を取り入れ、どのように作品としてまとめられるか、とても楽しみだ。
雨の撮り方(2020)
これもまだ完成はしていない、”感情を映像に乗せる”をテーマにした作品。田口さんは上映前に「言葉にすることと映像の関係」について話し、制作に対する悩みを会場内に共有した。
「言葉は誰かの視点でそこにある感情を絞ったもので、その映像はぎゅっと鋭くなるけれど落ちるものがいっぱいある。映像は空気を伝えられるものだと、自分自身は思っている。それに関連して、映像は感情を感じるものだとも思っている。楽しいとか、寂しいとか。それは鑑賞者のコンディションや背景によって変わってくるもの。そこに今、悩んでいる。空気感は分かるが、映像は映っているものが大事。映っているもの自体ではなく、雰囲気・空気を伝えることが出来るか。見えない自分が映像を撮るということは、面白いけれど難しいこともいっぱいある。いろんな人の撮り方や考え方を聞いて、それが実際に作品に反映するかは分からないけれど、場内の皆さんにも意見が聞きたい。」
雨を取り巻く風景や、映像編集などで協力するStudio Spark・小山さんと田口さんが雨の撮り方についてディスカッションする様子などがスクリーンに映し出される。それを観た後、場内からこのような意見が上がる。
「雨の伝え方はいろんな手段がある。場合によっては、音だけで伝わる雨もありそう。」
「音声ガイドの立場から言うと、音として伝わることは説明しない。雨音がある程度、想像させるので。雨がどこまで跳ね返るか等は表現するかもしれないが。」
「観たり聴く人の状況によってバリエーションは広がりそう。普段意識して観たり聴かないものを意識するだけで見方や聴こえ方が変わる。」
「触感としての雨はどうだろうか。掌に当たる雨や田口さんが感じる雨が観たい。」
「走る人間として雨は気持ちいい。細かい雨は、それこそ優しい雨だ。」
ある人が投げかけた感想を田口さんが拾って膨らませ、それを別の人に投げかける。会話のキャッチボールというよりは、雪だるまを作っているような感覚だ。小さな雪玉が複数人の手によって大きな雪玉になり、一体の雪だるまを共同で作っていく。そんなイメージが浮かぶ。
場内から上がった意見の中で印象的な言葉があった。
「雰囲気・空気を映し出すと言われたら、それを表現するのにまず一度言語化する、それをイメージを膨らませて映像に戻していく作業は、田口さんなりの作業だと思う。言語が介在していて、作り手側が言語で聞いたものをイメージに戻している。それで作品が出来ているということが独特で興味深いし、非常に面白い。」
田口さんの根幹にあるものは「言葉」のように思う。それは、「気配のかたち」の連載を読んでいて思ったことでもあるし、今回の上映会の作品を観て感じたことでもある。それが「雨の撮り方」という作品で如実に感じられた。
先の意見に対して、田口さんはこのように応えていた。
「目が見えている時は映像をたくさん観ていた。誰かの一言で頭の中の映像ストックから引き出されてイメージが膨らんでいく。『言葉を介して映像を観ている』というのはありますね。そして、頭の中の映像が変化していくんです。一生懸命想像するから面白いんですよね。」
上映会後、田口さんがハンディカムを手に持ち、観客1人1人にインタビューを行っていた。撮影画面をインタビューを受ける私達に見せて撮影を行う。田口さんはその映像を視覚的には観れないけれど、その人の声や紡ぐ言葉を通して、頭の中で映像を観ているのだし新しい映像を作り出す。田口さんのインタビューに受け応えしながら、頭の片隅でそのようなことを思っていた。
私は、世界の見え方はそこにあるものが全てだと思っているし、そこにあるものを横にいる誰かや近くにいる誰かは自分とは違うものとして捉えているのだと思っている。感じ方は十人十色、同一の見方というのはあるようでない。「分かり合えない」ということから全ては始まっていく。そんな考えを持っている。この考えは時にポジティブに働き、時にネガティブに働く。自分でいうのもなんだが、波があるため厄介だ。
今回の時間は、私にとってポジティブなものになった。上映会には、映像が好きな制作者や鑑賞者のみならず、田口さんのランナー仲間であったり、音声ガイドや演劇など言葉を生業としている人など、多様な人達が集まっていたのもそう思った要因かもしれない。それぞれの意見や感想を伝え合って膨らませていく様子は、自分が感じられる限界を他人の身体や脳を借りて拡張されていき、時に重なり合い面白く感じた。
視覚的に見えていても見えていなくても、誰かと共有し意見を交わし重なり合うからこそ、新しい世界が広がっていき、世界の見え方はどんどん面白くなっていく。コロナ禍で行動が制限され容易にすることはし難いかもしれないけれど、”かさねるとみえる”世界は手段を問わず存在していて、オンラインでもオフラインでも自分の気持ちと伝え合う意思があれば、新しい世界はすぐ近くにある。そんなことを田口さんの作品と上映会を通じて感じたのであった。
後日、場内にいた映像作家の佐々木友輔さんが、田口さんとStudio Sparkの小山さんに取材を行ったそうだ。お2人のインタビューの様子は、『映画愛の現在』第3部内で観れる(年内上映予定)ようで、作中では米子市近辺で映画を愛し、自らの手で上映機会を作り出す活動を続けてきた方々が登場する。その中で田口さんは、どんな言葉を紡ぐのだろうか。
この上映会を通して、田口さんという作り手の表現の繊細さ、熱量だけではなく、米子という地の映像カルチャーの面白さ・熱量に触れたように思う。新型コロナウイルス感染の影響で、これまで通りの上映会、映画鑑賞ということが出来にくい世の中になるだろう。そうだとしても、鳥取では、それに負けじと映画を愛し、自らの手で上映機会を作り出す活動が続き、新たな作品が生まれ続けていく。そんな未来が見えたような、希望を感じた時間だった。
写真:水田美世、佐々木友輔
日時|2020年3月28日(土)14-16時
場所|Studio Spark(鳥取県米子市陰田町615-1)