本棚帰郷 ―鳥取を離れて #2
それが、そこにあると 『鳥取の民話  新版日本の民話61』
(前編)

自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。2回目は全国の民話を集めたシリーズから、『鳥取の民話  新版日本の民話61』です。


最近、「うたうひと」という一本のドキュメンタリー映画を見る機会があった (1)

宮城県に住む三人の語り手がそれぞれ民話を語り、それを「みやぎ民話の会」で長年地域の民話を「採訪」(各家を訪ねて集めること)してきた小野和子さんが聞くという内容で、筋立てとしてはシンプルなものとなっている。ただ、小野さんが語り手から話を聞く姿も撮影している点がこの映画の大きな特徴で、聞くことによって語りが紡ぎ出されること、それによって語りが継承されていくことが示されている。

現代は、民話が日常から消えて久しい(1983年生まれの自分がこんなことを言うのも変なのだが)。そんな時代にどうしてこんな映画ができたのだろう。「うたうひと」を撮った酒井耕・濱口竜介監督は、もともと3.11後の被災地の人々の語りを記録するため、「なみのおと」「なみのこえ」という映画を作っていた。しかしその制作過程で、震災の記憶はどのように継承されていくのかという問題に突き当たり、民話という記憶の継承の方法に出会った。そのプロセスの中から出来上がったのが、この映画だったようだ。

映画を見ていて、最初は方言が難しくてなかなか民話の世界に入っていけなかった。しかし中頃、一気に引き込まれるシーンがあった。映画に登場する三人の語り手の一人、伊藤正子さんが「ひょうろんこう」という話を語り出す。その話の中には、それで尻を撫でられると、撫でられた人の尻が勢いよくしゃべりだすという特別な羽が登場するのだが、その尻の声を語り出すと、正子さんに物語の中の何かが宿ったかのように、ちょっと怖くすらあるほど躍動感に満ちた音を発しはじめたのだ。僕はそこで突然、語りの世界に引き込まれた。

 

そういえば鳥取にも、因幡の白兎という有名な話がある。鳥取の民話に興味が湧いたので、他にどんな話があるのだろうと思って探してみた。そうして見つけたのが、ここで紹介する本、『鳥取の民話』だ (2) 。去年新版が発売されたばかりの、全国の民話を集めたシリーズの一冊で、装丁もよく、手に取りやすい。

収録されているのは「因幡の白ウサギ」のほか、「湖山長者」「佐治谷話」など子どもの頃にも聞いていた話が多く、これらは主に鳥取の東部、昔でいう因幡の国で語り伝えられてきたものだ。残りの半分は中西部にあたる伯耆の国の話だが、自分はこちらにはそれほど馴染みがない。方言も少しちがっていて、因幡の話に比べると伯耆のものは、僕には入るのに少し敷居があった(両地域の文化のちがいも、多少は関係しているかもしれない)。それでも、どちらの話を読むのも面白い。

少しだけ具体的な内容を紹介しよう。「湖山長者」は、かつて湖山に住んでいた大地主の長者の話。ある年の春、長者はたくさん人を雇って田植えをしていたのだが、みなが変わった猿に目を奪われてしまい、日が沈むまでに田植えが終わらなかった。なんとかその日のうちに間に合わせようとして、長者は金の扇を持ってきて沈みかけた太陽をあおぎ、また空に昇らせてしまう。そうしてついに自分の思い通りに、田植えを終わらせてしまった。けれどその傲慢さは天を怒らせ、翌朝、長者の田んぼは水浸しになってしまう。それが今の湖山池だ。このように、現在の湖山池の由来を説明する物語である(似たところでは、伯耆の大山が、他の山から土を取ってきて高くなったという話もある)。

小さな頃、この話を元にした絵本を読んで、湖山というのがどこなのかまだよくわからなかったけれど、長者の金の扇や、田んぼの広大さ、長者がその田んぼを見張らしながら対峙する太陽の鮮やかさだったりが、なんだかとても強く記憶に残った。これは一体どこのことと、当時の自分は思っていたのだろう。どこでもないどこか、でもそんなに遠くはない場所に、長者はいた気がする。

 

ところで、東北の被災地の場合はともかく、鳥取のような他の地域で、今民話について考えることに、何か意味はあるのだろうか。

民話が現代の日常生活の中で、直接役に立つことは、残念だけれどなさそうだ。教訓めいたことを教える話もなかにはあるが、必ずしも善人が報われる話ばかりではないし、笑い話やくだらない話も多い。数々の物語はやはり、囲炉裏を囲んだたくさんの人を楽しませる娯楽という側面が主だったろうと思うが、現代では囲炉裏などとっくに消え、娯楽も他にたくさんある。

他方でここ数年、いろいろなところで日本の文化や歴史・伝統なるものを振り返ったり、評価する動きが盛んだ。そういうものの一つとして、民話を捉えるという選択はあるかもしれない (3)

やや大きな話になるが、明治以後の資本主義の発達は、戦後の高度成長を経て、人々の生活上の(衣食住の)問題のほとんどを、お金によって解決できるようにした。そうして人々は、共同体に依存しないでも暮らせるようになった。けれどそれは、共同体が維持してきた、お金を介さずに人々を繋ぐ様々な関係を、断ち切ってしまうことでもあった。お金だけを介した「消費」の関係は、金銭のやり取りが終われば完結してしまうから、それ以上続く関係を必要としないのだ (4)

共同体の関係は人間を拘束する面もあるから、それはある程度までは人々の「自由」を増すものと考えられただろう。けれどあまりに関係が失われると、人は社会的孤立へと導かれていくし、お金がなくなった場合、とても脆弱な存在となってしまう。「自由」は奪われていく。

関係が失われることで、他者から切り離され、時間から切り離される。そういう状態への対応として、日本の文化や歴史への参照が、現在頻繁に起こっているように思われるのだ。それらはもっと長い時間へと個人を接続し、同時に歴史的な共同体へも関係づけてくれる。民話は、そのようなものの一つとも考えられるのだ。

 

こう言ってみた上で、でも自分は、本当のところ民話のことをどう思っているのだろう。大きい話ばかりしていると、何かを見逃してしまう気がするのだ。

そこに民話があると、なんだかうれしい。自分の感触を確かめてみると、僕はそう思っているようだ。「そこ」というのは、自分の生まれ育った土地、つまり鳥取のこと。

では、どうしてうれしいのだろう。 (続く)


1. http://silentvoice.jp/utauhito/
2. 鳥取県には数多くの民話があり、それぞれの地域で民話を収集している方が本にまとめたものを、図書館の郷土資料コーナー等で読むことができる。また鳥取県立博物館のホームページには、県内の語り手から採集した民話やわらべ歌の音声がアップされており、ウェブ上で聴くこともできる。
[民話] http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=265693
[わらべ歌] http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=265694

3. こういう動きは、かつては「保守」あるいは「右翼」と呼ばれる立場の人の間で盛んだったわけだが、それが今やすべての人に広がっているように見える。それはおそらく、後述するように社会的必要性があってのことで、そのこと自体は悪いことではない。けれど自文化の肯定が他の文化の否定につながると、争いを導き、「他者」を傷つけてしまう。自文化の肯定はつねに、他の文化の肯定とともにあらなければならない。
4. 衣食住について、お金による解決だけに依存するようになった結果、そのまわりの人々の関係を損なってきたのだとしたら、衣食住を丁寧に見つめ、そのプロセスを回復させていくことで、人々の関係も新しく生まれていくのかもしれない。そうやって生きようとする人と、最近たくさん会う気がする(鳥取でも、他の地域でも)。


 今回の1冊『鳥取の民話 新版日本の民話61』
編者:稲田和子
出版社:未來社
発行日:1976/7/30
ISBN : 9784624935610

ライター

nashinoki

1983年、鳥取市河原町出身。鳥取、京都、水俣といった複数の土地を行き来しながら、他者や風景とのかかわりの中で、時にその表面の奥にのぞく哲学的なモチーフに惹かれ、言葉にすることで考えている。