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2018.12.7

本棚帰郷 ―鳥取を離れて #12
『The Seed of Hope in the Heart』(4)

自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本や作品を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市で種屋を営む佐藤貞一さんが、母語ではない英語で書き続ける本『The Seed of Hope in the Heart』を取り上げる4回目。


前回は震災後佐藤さんが行った、かつての津波についての調査を紹介した。そこで行われる「調べる」という行為は、中立的なように見えて、なんとか津波の経験を乗り越えようという強い意思を感じさせる。それがなければ、その行為に向かうことすらできないだろう。そしてその力を佐藤さんは、一本松の姿から(また後に紹介するいくつかのもの)から受け取った。

ところで被災者の一人として、佐藤さんは、津波の調査よりも前に自身の生活を立て直す必要があった。そのために、震災後すぐに店舗の再開へ向けて動き出す。とはいえその道のりも簡単なものではなかった。今回はそれについて書かれた部分を紹介する。

同級生の訪問
津波の直後、佐藤さんは破壊された店舗の跡を見た。周辺は廃墟となり、亡くなった人の遺体がそこここにあった。海からはきつい風が吹きつけていた。佐藤さんはそれを見て頭を垂れた。死んだ方がよかったと思い、一日中隠れて泣いていた。津波によるショック状態だったという。そんな時、東京から高校の同級生が訪ねてくる。

彼は静かに言った。「むかし高校の時、あんたは応援団長だった」。それから激しい調子になって言った。「俺たちの母校の高田高校では、津波で22人の生徒と先生1人が亡くなった。遺体は互いに手をつないだままだった。俺は苦しくて腹が立った。津波の馬鹿野郎!〔…〕あんたはやるしかない、やるか死ぬかだ。頑張れ!俺には援助できる金はないんだ、少しも。ただ応援するだけだ、何かやるんだ。(1)

彼はそう佐藤さんを励ました。生活が苦しいにもかかわらずその人は、そのためにはるばる東京から訪ねてきた。津波によって打ちひしがれたこの町の人々を勇気づけるため、佐藤さんは店を再開することを決意する。震災後、周りには問題が山積しており、最初は何から手をつけたらよいかわからなかった。けれどそうやって自問していると、簡潔な答えが閃いた。「目の前の問題を解決するには、一つずつ始めるしかない」 (2)。たくさんのことを一度に考える必要はないのだ。その考えが佐藤さんを勇気づける。

災害保険には入っていなかったため、入っていたら受け取れたはずの補償も、佐藤さんは受け取ることができなかった。2011年7月までに日本中の種苗店などから支援金を受け、政府や赤十字からも寄付を受けていたものの、津波で流された店舗などの財産に比べるとそれはわずかな額だった。それでも寄付金は津波の前に購入したものの支払いなど借金を減らすのに役立ち、佐藤さんを勇気づけた。

震災から一ヶ月後、佐藤さんはお父さんが使っていた古い軽トラックを使って、種と苗の移動販売を始める。しかし移動販売よりも、やはり固定した店舗が望ましかった。地震と津波から一月半後、以前牛や馬を飼っていた実家の納屋を店に改造し、そこで当座の営業を再開する。そこには佐藤さんの心配をよそに、たくさんの人がやってきてくれた。しかし雨漏りや駐車場の問題などがあり、再び他の場所を探すことになった。所有する田圃で店を開くことを考えたが土地規制に阻まれ、また政府が津波の被害を受けた自営業者に土地を無償で貸すという政策に知人と応募しようとしたが、長い時間がかかるとわかり断念した。途方に暮れ、眠れない日もあったという。そのような状況の中で佐藤さんは、結局、自分でやるしかないのだということを理解する。(3)

だから私は、また目の前の小さなことを解決することに集中した。そうすると、お告げのような誰かの言葉が、耳の中で聞こえた。「お前にはまだ土地がある。自分の土地に帰るんだ」。それはまだ梅雨の前の時季、2011年の5月のことだった。(4)

佐藤さんは、津波で流された、以前店があった場所へ戻ることに決める。

津波で流された土地へ
5月、津波で破壊された以前店のあった場所に戻り、まずその場所の瓦礫を片付け始める。そうしていると、すぐに被災地の片付けをしていた重機が勝手に店の土地に入って、辛うじて残っていた境界の擁壁など、かつての店の残骸をさらに壊し始めた。佐藤さんは残骸を握りしめながら泣き叫んでそれを止め、敷地の周りにロープを張る。壊れてはいても、それらは持ち主にとって単なる「瓦礫」ではない。かけがえのないものだ。そしてまた片付けを続けた。時々余震が起こり、津波警報が発令されることもあり、その度に山の高台の方へ避難した。

辺りでは強い風が吹き、埃が巻き上げられた。いつも埃っぽく、靴は砂でザラザラした。瓦礫の鼻を刺すような匂いがした。津波の後には春がやってきたが、津波の塩害を受けた地域では緑は少なく、植物はすぐに枯れてしまった。夏には蝿が異常発生し、魚の腐った匂いがした。瓦礫の中でねずみがたくさん生まれていたが、ねずみは災害の前にはうまく逃げるというから、それがいる間は安全に店の再建の作業ができるだろうと思った。昼間は荒涼として、夜は静かで気味が悪かったという。(5)

水を得るために井戸を掘る
店舗の再開を模索する佐藤さんに、大きな問題が立ちはだかる。植物の苗を育てるためには水が必要だが、安定して水を得る手段がなかったのだ。破壊された市の水道は6月には復旧したが、津波が浸水していない地域に限られ、浸水地は復旧計画が未定だった。水道が回復した地域から私費で水道を引くのも、大きな金額がかかるという。その時ふと、震災前に近所の人から、この辺りではずっと昔、井戸を掘っていたと聞いたとことを思い出す。(6)

佐藤さんは井戸を掘ることを考え始める。だがボランティアは人手不足で頼めず、業者にも100万円ほどかかると言われてしまう。そこで佐藤さんは、ほとんど道具もない中、自分で井戸を掘り始める。その時は白昼夢にいるようで、悲劇の映画スターにでもなったような気分だった。松の枝や、瓦礫の中で見つけたシャベル、お玉杓子などを使い工夫して穴を掘り進める。しかし進めるに連れ、だんだん作業は厳しくなっていく。掘っていて、泥が服と顔にかかる。すると津波に対する怒りがこみ上げ、涙を流してうずくまったこともあった。しかしそれから、ここで亡くなった人たちのことを思い、平静を取り戻した。山から切ってきた竹の先に金属の刃を付けた道具を考案し、作業を続けた。

2012年夏、再建した店舗に自分で描いた絵の横に立つ、佐藤貞一さん

春の終わりから夏にかけて、一日数センチだったが、昼間は納屋の仮設店舗で種や苗を売りながら、早朝と夜の空いた時間を使って井戸を掘り続けた。掘る場所を変えようと何度も考えたが、思いとどまった。何としても津波で破壊された場所で、植物を花開かせたかった。逆境の中で咲く花や収穫される植物は、人びとの気持ちを上げ、勇気づける。掘り進めて突き当たった石を鉄の棒を投げ入れて砕き、穴が崩れそうになると瓦礫から見つけたパイプを挿入し、佐藤さんは掘り続けた。そうすると最後に、礫の層に到達した。その層は堅く、掘るための道具が何度も壊れた。「もう終わりだ」。そう思い、掘り始めたことを後悔した。

だがそう思ったまさにその時、冷たく気持ちよい蒸気を穴から感じた。穴の底を見ると、水が溜まり始めていた。とうとう水脈にたどり着いたのだ。その時、深さは6mに達し、掘り始めてから三ヶ月以上が経っていた。神奈川県の会社から手動ポンプのキットを取り寄せ、費用を節約するため自分でそれも取り付けた。ポンプだけでも業者に頼めば30万円かかるところを、5万5千円で済ませることができた。井戸の水に塩気はなく、夏には冷たい。冬に外気がマイナス10度になると家の導水管は凍ったが、井戸の水は凍らなかった。これを見て佐藤さんは、昔のやり方は現代の技術より優っていると思ったという。

プレハブの設置と店舗の再開
店舗の再開には水以外に、店の建物も必要だ。その準備も進めていく。震災から三ヶ月後の避難住宅ではインターネットが使え、そこでオークションに出ていたプレハブを見つける。それを扱っていたのが、鳥取のリサイクルショップだった。震災の被害は物流に影響を与えており、自由に欲しいものを手に入れるのが難しかったため、プレハブを購入できたことに佐藤さんは感謝しているという。

鳥取の業者は被災の状況を考慮し、それをすぐに届けてくれた。陸前高田までの800kmの距離を彼らは25時間かけてやってきた。津波で町が破壊されカーナビが役に立たなかったため、暗くなっても到着しなかった。やっと到着して被害の状況を見た彼らは驚いていた。電気がなかったので、積んできたトラックのヘッドライトの明かりで夜中まで作業を続けた(7)

翌朝、津波で破壊された世界に、小さな小屋が立っていた。2011年7月13日、陽の光の下で、私はうっとりしたようにその建物によって変わった光景に見入っていた。その時それは、言いようのない感情で私を満たした。2016年の今から振り返ってみるとなんだか変だ。それはただの、古びた建物だったのだから。(8)

以前店があった土地に設置されたプレハブ、本書249頁より

周囲のすべてが流されたなかで、プレハブの設置は、佐藤さんにとって大きな出来事だった。そして、ついに店が完成する。店舗に加えてトイレと庇、看板等をつけ、雨漏りを直し、苗を育てるグリーンハウスも瓦礫を利用し設置した。以前は誰かのものだったはずの瓦礫を使う際には、津波で流された人へ祈りを捧げた。2011年8月、ついに佐藤さんの元の土地での店舗がオープンする。店の再開にかかった費用は、全部で130万円ほどだった。(9)

開店した店には、常連客が訪れてくれた。彼らは最初不安そうに、津波で被害を受けた場所を訪れた。なかには泣きながら店に入ってきて、佐藤さん夫妻に抱きついた人もいた。そんな中、佐藤たね屋で育てられた植物の収穫は、佐藤さんとお客さんたちを楽しい気持ちにさせた。季節の果物や様々な種類のトマトを食べると、誰もがたちまち笑顔になった。植物園のある佐藤たね屋は、津波で破壊された砂漠の中で、オアシスのようだったろうと佐藤さんは記している。(10)

店舗の再建のため、食事の時間以外休む暇がなかった。しかしその作業が、佐藤さんから悲しむ時を忘れさせた。店は、自分にとって「神聖な場所(sacred place)」なのだと佐藤さんは言う(11)。すべてが破壊され流された土地で、亡くなった人たちを想いながら、苦しい作業を諦めずに続け、自らの拠って立つ場所を創った。そこから再び、佐藤さんは震災後の過酷な世界に出発することができる。「神聖な場所」とは、そういう意味なのかもしれない。そして再建された店は、被災した他の人々にとっても、「出発」の希望を与えるものとなっただろう。

夕暮れの中の佐藤たね屋、本書266頁より

そのような佐藤さんの営みがあったからこそ、筆者も含め東日本大震災の被災地の外から陸前高田にやってきた人々もまた、佐藤たね屋を訪れることができた。今回紹介した箇所を読み、翻訳することで、筆者はそのことに改めて気づかされた。2016年、津波で浸水した土地のかさ上げ工事のため、佐藤たね屋は高台の土地に移転し、営業を続けている。

写真:上2枚は2012年夏に筆者撮影。下2枚は佐藤貞一さん提供
協力:小森はるかさん

〈続く〉


1.p.210
2.p.211
3.p.212-214,218
4.p.218
5.p.219-222
6.以下、井戸に関する記述は、226頁〜234頁を参照。
7.p.248. その日のうちには作業が終わらなかったが、業者は帰らなければならなかったため、残りの作業は佐藤さんが翌日ボランティアと行った。
8.p.249
9.p.255. 震災から10ヶ月後の2012年1月1日には、グリーンハウスで植物の苗の栽培を始めている。
10.p.262-263
11.p.259


 今回の本 『The Seed of Hope in the Heart』5th edition
著:Teiichi Sato(佐藤貞一)
発行:2017年

ライター
nashinoki

nashinoki

1983年、鳥取県八頭郡河原町(現鳥取市)出身。京都在住。国際政治を勉強しようと上京し法学部に入学するも、進路変更しフランス思想のゼミへ。大学院では哲学・倫理学を学び、修了と同時に東日本大震災と原発事故が起こる。最近やっと自分が何を書きたいのかわかりはじめ、文を書きます。トットの他、鳥取のベーグル喫茶「森と生活者」の冊子『森と生活者』でも連載中。

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