野坂勇作(絵本作家)#2
時間を見つけては「子どもぼっこ」へ出掛けます

絵本や児童書を専門に出版する福音館書店から多くの作品を発表し、1985年のデビュー以来、30年以上に渡り絵本作家として活躍する野坂勇作さん。今年は、月刊『こどものとも年少版』8月号として新作「すすめ ろめんでんしゃ」を発表されました。
島根県松江市生まれ、広島育ち。多摩美術大学中退後に佐渡島で農家に住み込みで働くという体験などを経て、現在は鳥取県の米子に暮らしながら創作活動に取り組んでいます。


― 絵本作家としてデビューする前のことを伺えますか。大学時代についてなど。

野坂:大学生活が面白くなくて、中退しました。工業デザイン科に通っていて、当時は車のデザイナーなどが花形の職業で、そういうものを目指していて。だけどどこかで、機械で大量につくられるものに対して、自分にしっくりこないところがありました。加えて、私の世代は反戦平和活動をしていた次の世代で、その反動で「あんなことをやっていては就職できない」という空気になっていた。ほとんどの学生が先生の言うことはよく聞き、おりこうさんで。それが悪いことではないけれど、大学ってもっと自分を表現してもいい場所ではないかと思っていて、物足りなさや歯がゆさを強く感じていました。

それである冬、上野駅から上越線に乗って北を目指しました。僕は少年時代を広島で過ごしましたが、元は松江の生まれです。日本海側の人間の血が騒ぐというか、とにかく雪が好きだった。多感な世代ですから、どうしても雪が見たいという衝動に駆られて。
上越線の終着駅は新潟でした。新潟は大きな街なので、もっと田舎に行こうと思って、越後線というローカル列車に乗って「内野」という小さな駅で降りました。ひたすら北に向かって歩いてみたんですね。海岸までたどり着くと、ちょうど冬の晴れ間に陸地が見えた。それが佐渡島でした。「わあ、こんな吹雪の荒波の向こうに人の営みがあるのか」と思ったら、行ってみなきゃという気持ちになって。実際に足を運んでみたら、すごくしっくりきました。

― 佐渡島では、農業をされていたそうですね。

野坂:知人づてに佐渡島の農家を訪ねました。はじめのうちは別に働き口を探しましたがなかなか決まらず。結局、小遣い程度で良ければうちに居れやと言ってくれて、納屋の2階で2年間住み込みで働きました。しばらくして農家の主の紹介で村の青年団に入ることに。最初はしぶしぶでしたが、やはり、語ったり行動を共にする同世代の友人を得られたことはありがたかった。この仲間と僕は『まいぺーす』というミニコミ誌をつくりはじめました。それまでは、青年団の行事をただこなすという受け身な感じで、これではつまらないなと思って。それで僕が提案したんです。

僕は僕なりに外からの視点で佐渡島を見ていて、文楽とか人形浄瑠璃とかいろんなものがあると感じていて。都会発信ではないスタンスでつくろうと呼びかけたら、その中の数名が賛同してくれました。後に連れ合いになる弥代美さんも少しあとから参加しました。ガリ版刷りのモノクロで全部手づくりで、初版は50部くらい。でも、都会発が当たり前だったところに田舎初のものができたと、全国的に新聞やテレビでもかなり話題になりました。雑誌「女性自身」の巻頭のグラビアで掲載してもらったりもしました。カラーグラビアなのにうちのミニコミ紙はモノクロで(笑)

― ミニコミ誌『まいぺーす』ではどういった記事を扱っていたのですか。

野坂:基本的に佐渡のオリジナルの表現者たちを扱った内容が多かったです。佐渡にふさわしいファッションの在り方とかも考えました。裂き織は当時佐渡で有名だったので、そのコーディネートの仕方というか、佐渡風最新ファッションを(笑) 佐渡島のビールのパッケージも考えた。2号は「新穂(にいぼ)」という青年団の劇団を特集しましたね。メンバーそれぞれの持っている特性をまずは活かそうと。7号までで発展的に終息しました。その後、『月刊 佐渡国』という雑誌が、基本的な「佐渡発」というコンセプトはそのままに引き継いでくれました。

連れ合いにプロポーズしていましたから、月1,2万円しか稼がずにやっているようではいけないと思い、佐渡島を離れることにしました。妻は正規社員をしていてこっちはフリーターですから。それでも何とか新潟市内に住まいを確保して、少し落ち着いて、結婚して、その後お腹に赤ちゃんが出来ました。

― 絵本「ちいさいおうち」との再会が、絵本作家になりたいという思いに繋がったと伺いました。

野坂:絵本との再会には、私自身が絵本をたくさん読んでもらったという幼児体験が深く関わっていると思います。父は本が大好きで、借金してでも本を買う人で。高価だった絵本も僕に与えてくれて、読み聞かせは母親が。「ちびくろさんぼ」や「きかんしゃやえもん」など大好きでしたね。その中でも「ちいさいおうち」(※5)は圧倒的にインパクトが大きかった。

生まれて来る子どものために書店に行ったら、「ちいさいおうち」が売られていました。改めて読むと、人の人生を重ね合わせたような壮大な物語が描かれていることに気づき、ものすごく衝撃を受けて。また、ものというものは生まれては消えていく性にあると思っていたのに、僕のお気に入りの絵本が20年以上たっても読み継がれていることに、本当に驚いて。大学をやめても何かをつくることに関わっていたいと思いながら、具体的に何をしたらいいか僕は分からずにいた。だけど「ちいさいおうち」に再開して、絵本をつくろうと心に決めました。「ちいさいおうち」は今でも目標というか、理想とする絵本です。

― 絵本づくりのなかで、影響を受けている人や出来事などはありますか。

野坂:前述の、3作目の「どろだんご」で半年近く通って取材した広島県廿日市市の「かえで幼稚園」には、たくさんの刺激を受けています。

デビュー作「ゆきまくり」で、絵本に挟まれている冊子に僕のプロフィールが小さく載っていました。その頃はもう新潟を離れて広島に居りましたので、「広島市在住」とあった。それを中丸元良園長が読んで、ぜひ会いたいとアプローチしてくれて。2月頃に会いましたね。

かえで幼稚園の園だより「れんらくせん」で中丸園長が執筆した巻頭文をまとめた本。1995年刊行。続編は2005年。かえでの森出版刊。

他にも広島の幼稚園からはいつしかお便りが届くようになって、作品展のお誘いなども来ました。でもどこも上品で上手で、先生や親がつくっているんじゃないかなというのが、何となく分かる。

ある時、かえで幼稚園の作品展に行ってみて、驚きました。セロテープの芯の上に泥だんごが味もそっけもなくばーっと乗っている、ただそれだけなんです。その後は座布団に置かれたりしていましたけど(笑) 子どもがつくって子どもがこう展示したいという姿をそのまま出していて。衝撃でした。

どこの幼稚園でも、行事ごとに大きな作品をつくりますよね。時期が終われば片づける。でもかえで幼稚園は片づけないんですよ。子どもたち自らが「片づけないで!」と言うものだから。部屋の中に子どもたちの居場所さえない(笑) 子どもたちの方から「片づけないとなぁ」という声が出るまではそのままにしておくんです。園のスケジュールを考えるとなかなか出来ることではない。片づけるときの勢いもすごいんですよね。壊すというエネルギー。それは子どもの才能で、それを認めている。中丸園長は「破壊こそ創造だってピカソも言ってたでしょ」ってね。

― かたちに現れないところに創造性を見つけることは、容易ではないですよね。

野坂:一見何も考えてないようで、深く思いを巡らせている園長です。現場を知らない人からの呟きや、保護者との人間関係もいろいろあると思うけど。本当に些細なことでも一生懸命に悩んで、悩みぬいている。心の底から子どもたちを真ん中に置かないといけない、子どもたちにとってどうあるのが良いかと。

編集者から「どろだんご」の企画を提案された時、これはもう、かえで幼稚園の子どもたちと遊ぶしかないなと思って。それ以来、なるべく時間をつくって「子どもぼっこ」をしに通っています。

月刊『こどものとも年少版』1989年7月号として発表した「どろだんご」。2002年にハードカバーに。

― 「子どもぼっこ」というのはどういう意味ですか?

野坂:僕の造語ですが、日向ぼっこみたいに、ひたすら子どもの中に身を置いて過ごすことです。僕の絵本作りは足で調べるというか、カメラやスケッチというよりは、五感六感を使って取材することを大事にしています。「〇〇をつくろう」というアプローチはせず、子どもたちが遊んでいるところへさりげなく入っていく。そうすると子どもたちの方から、「こっちにおいでよ」とか、「ここに座って」とか「椅子つくってあげるよ」とか、肩揉んでくれたりしてくれて。この人構っていい人だなとか、いまは構っちゃダメかもなとかが瞬時に分かるんですね。「構ってあげないといけない人だな」とかもね(笑)

子どもって不思議なもので、晴れていて泥だんご日和だと思っても部屋で遊ぶこともあるし、雨が降っていても、すのこの下からさら粉(さらさらの砂)を見つけて泥だんごにまぶしていることもある。

いまもときどき、お迎えに来るお母さんにばったり会うと、「あー、野坂さん」って、覚えてくれていて。僕と遊んでくれた園児が、一回りして親になっています。

僕にとってこの園との出会いはとても大きかったですね。子どもが真ん中にある絵本をつくろう、子どもだましの絵本をつくってはいけないって、教えられました。仕事の内容こそ異なりますが、園長は僕と同い年で、子どもに向き合うという点でライバルだと思っています。

#3へ続く

※5:アメリカの絵本作家、バージニア・リー・バートンの代表作で1942年に発表された。日本語訳は、児童文学者の石井桃子が手掛け、1954年に岩波書店から出版された。


野坂勇作
1953年、島根県松江市生まれ。広島県で育つ。多摩美術大学工業デザイン科中退。その後、新潟県佐渡島で農業に従事するかたわら、ミニコミ誌『まいぺーす』を編集。絵本「ちいさいおうち」(岩波書店)に再会することで、絵本を描き始める。主な作品に「あしたのてんきは はれ? くもり? あめ?」「どろだんご」「オレンジいろのディゼルカー」など。今年は、月刊『こどものとも年少版』2017年8月号で「すすめ ろめんでんしゃ」を発表。

福音館書店
http://www.fukuinkan.co.jp/

ライター

水田美世

千葉県我孫子市生まれ、鳥取県米子市育ち。東京の出版社勤務を経て2008年から8年間川口市立アートギャラリー・アトリア(埼玉県)の学芸員として勤務。主な担当企画展は〈建畠覚造展〉(2012年)、〈フィールド・リフレクション〉(2014年)など。在職中は、聞こえない人と聞こえる人、見えない人と見える人との作品鑑賞にも力を入れた。出産を機に家族を伴い帰郷。2016年夏から、子どもや子どもに目を向ける人たちのためのスペース「ちいさいおうち」を自宅となりに開く。