こどものわたしがいたところ
「日常記憶地図」で見る場所の記憶 ♯2
キヨコ/米子市万能町・茶町・日野町
自分の根っこはあの界隈にある。実際にはすっかりなくなってしまったというのに
自宅や近所の風景、何度も訪れた秘密基地、学校からの帰り道、初めての一人暮らしのまち。何気なく繰り返される私たちの生活の記憶の数々は、少しずつ集積されることで、その土地の新たな姿をかたちづくるのではないでしょうか。
言語化やコミュニケーションをテーマに表現活動をされてきたサトウアヤコさんのメソッド「日常記憶地図」(1)の手法を用い、鳥取にゆかりのある方々がそれぞれにかつて暮らした場所の記憶を文字と写真で綴ります。
今回の“わたし”
名前|キヨコ
エリア|米子市万能町・茶町・日野町など。今は区画整理で当時の面影は全くないが、当時自宅のあった万能町は曲がりくねった細い道に小さな家が密集していた。父の実家のあった茶町は表通りから裏の加茂川までうなぎの寝床のような家が多く並んでいた。かつての間口税の関係。そして近くの日野町の商店街は土曜夜市などで賑やかだったところ。
当時の年齢|5歳-13歳(幼稚園年長-中学2年生)
時期|1958(昭和33)年-1965(昭和40)年
その土地に住むようになった経緯|父が国鉄勤務で、以前は大篠津にあった国鉄官舎に住んでいたが、私が生まれて間もなく、米子駅近くの万能町の借家に移り住んだ。
よく行った場所
荒神(こうじん)さん境内
自宅と日野町(商店街「元町サンロード」入り口)の間にあった神社。境内で小さい子たちが遊んでいた。自分もよく遊んだ記憶があるが、高校生の頃だったか、久しぶりに行ってみたら、記憶にあるよりずっとこじんまりしていて驚いた。古い地図では万能神社とあった。今はもうなくて、駐車場になっている。駐車場の隅に説明があった。
自宅
当時万能町のその界隈は、曲がりくねった道に小さな家が密集していた。うちに入るためには、通りに面したお宅二軒の隙間(しかし2階はつながっていた)を通り抜けるしかなかった。その奥もまた、細い道が曲がりくねり、家がごちゃごちゃと並んでいた。L字型の我が家と隣の家はくっついていて、屋根はコの字型。昭和38年の大雪の時は、三方からの雪が落ちて、窓が雪に埋もれ、かまくらを作った。中学2年生の時に、現在の家に引っ越すまで住んでいた。この自宅も茶町の祖父母の家も、区画整理で今は跡形もない。
茶町の父の実家
茶町の交差点の角(末吉かまぼこ店)から3軒目に父の実家があった。
両親とも働いており、家の鍵は持っていたが、友だちのうちや図書館へ行かない日は殆ど行っていたと思う。表に面して自転車屋があり、入り口から半ばの住居エリアは細長く独立していたが、奥へ行くと庭は両隣とつながっていた。柿の木の落ち葉がきれいで、イチジクの木は低いところに枝が広がり、よく登って遊んだ。ブランコもあった。真ん中あたりの部屋に、小さな階段があり、2階は変形の小さな部屋で、従妹が使っていた。大事にしていたレコードを聞かせてもらったことがある。ビートルズの「イエスタデイ」など。
児童図書館
小学校高学年から中学2年生ごろまで、よく学校帰りに米子城址近くの児童図書館へ行って、暗くなるまでずっと本を読んでいた。
お菓子屋「宮田軒」
万能町の外れに、小さなお菓子屋さんがあり、時々行った。夏はアイスクリーム(シャーベットとアイスの間のような口触りで美味しかった)、冬はあんまんなど。
二中(米子市立第二中学校)
校舎は古かった。でも、好きだった。中学時代はよかった、とか、中学2年生の時が自分の人生で一番よかった、などとよく思った。一体何が良かったのだろう。何が楽しかった、とか具体的なことが全然思い出せないのだが、ある時社会科の先生が「この教室は窓が壊れて修理が間に合わせでみっともないけど、いつも花がある。人生の縮図を見るようだ」とおっしゃったことを覚えている。自分に気づき自分と他者を考え初めた頃だったのかもしれない。
商店街「元町サンロード」の本屋
サンロードの入り口近くに小さな本屋さんがあり、米子書店、今井書店などよく行った。本屋さんの雰囲気は大好きで、よくのぞいていた。中学生の時ひと月の小遣いが300円で、600円の早川書房の『エデンの東』が欲しくて、2ヶ月貯めて買ったのを覚えている。よく本屋さんであれこれ本を眺めていた。母と行くと時々買ってもらえたが、いつも何か一言あって、「そんな恋愛小説なんて」とか(これは『風と共に去りぬ』を買ってほしいといったときだったか)。本なら何でも買ってあげる、という割には、文句が多かった。
商店街「元町サンロード」の肉屋
母は小学校の教員で、家庭科も教えていたらしいが、料理は全く苦手。走るように帰ってきて、野菜炒めなどが多かった気がする(以前妹と話していて、友達にお母さんの料理で何が好き、という話になり、妹は思いつかず、友達はハンバーグと言って、ハンバーグが家でも作れるのだ、とびっくりした、ということがあった)。
妙に覚えているのは、週1回はステーキ。火曜日にサンロード入り口の肉屋へ買いに行くのは私の担当で、父がいるときは4枚、いない時は3枚。父は仕事柄、泊まりもあり、早出もあり、夕方いないことも多かった。
銭湯と父の職場の風呂
住んでいた借家は風呂がなくて、銭湯へ行ったり、父の職場(米子駅)の家族風呂へ行ったりした。構内に風呂や購買(普通のお店より安かったと思う)があり、利用していた。
洋食店「十字屋」
父は外食が嫌いで、母は好きだったので、父が不在の時は母は娘2人を連れてよく外食した。洋食屋さんの十字屋が多かったような気がする。母は田舎育ちで街に憧れがあったとよく言っていたが、街=洋食のイメージがあったのかもしれない。
愛着のある場所
茶町の父の実家
祖父は大工で、奥に作業場があった。もうすでに引退していたと思うが、時々頼まれた小さな仕事をしていて、材木をかんなで削る様子や、墨壺で線を引く仕事など、飽きずに見ていた記憶がある。ずいぶんと幼いころから小さな茶室で、抹茶をごちそうになった。作業場の手前にあったその茶室もすべて祖父の手作り。細長い家の終わりが作業場で、その先は川があって、家ごとに細い橋が架かっていた。古い地図を見ると加茂川だった。
祖母はやさしい人で、よくおやつを作ってくれた。例えば、お櫃に残ったご飯粒を集めて笊で濾して、板に広げて干しておいて、翌日お菓子にしてくれたり、カルメ焼きを作ってくれたり。印象に残っているのは、石臼で米や豆などをつぶしていた。その粉で何を作ってくれたかは思い出せないが、どんな仕組みなのか、かなり重い丸い円柱形の石を回してすりつぶすのが、見ていてとても面白かった。
台所は土間で、消し炭が珍しかった。祖父が現役の時は、棟梁だったそうで、若い人たちの食事の世話で祖母が大変だった、と伯母から聞いたことがある。
法事などがあると、当時は家に人が集まったので、祖母やおば達、従妹達が準備に大忙しだった。ふすまを外して細長い部屋にして、掃除し、蔵から猫足や器、漆器、酒器などを大量に出して洗ったり拭いたり、そして大量の料理を作ってよそって、並べる。片付けも大変だったと思う。祖母が紅絹(もみ)で、お椀を拭いていたのを覚えている。
暮れには、親戚一同集まって餅つき。もち米を次々と蒸して、餅を搗く。おじや従弟たちが掛け声をかけながら。杵が大中小何種類もあって、小さい子たちも、皆搗かせてもらった。法事の時と同じようにふすまを外して、長い板を並べて、つきあがったお餅を、祖母がちぎって投げる(丸餅なので、刃物は使わない)。 おば達や従妹、孫たちがずらりと並んで丸くしていく。お供え餅は、形よく大きく作る。本家のものは大きく。
いとこ達10数人で、庭で遊んだ記憶もある。あるいは近所の子どもたち大勢で遊んだこともある。表玄関は敷居が高くても、裏は境があってないようなものだったのだ。
振り返って
米子の茶町で生まれ育った父と、西伯町の農家の3女の母。どんないきさつで結婚したのかはわからないけれど、私と4歳下の妹が生まれた。母は、小学校の教員で、私が生まれたときは、学校近くの知り合いに私を朝預け、多分途中で授乳もしたりして、夕方ピックアップして帰る。父は国鉄の機関士で、二人の仕事時間はいつもずれていたと思う。父は昼時、自分で食事の準備をして片付けていた。母は、私たちに「茶町のおばあちゃんに二人を育ててもらったから、育児はしたことがない」等と言ったこともある。
当時は共稼ぎ(当時はこう呼んでいた)の家庭は、自営業のお店などを別にするととても少なかった。母は先生になりたくて師範学校(今の鳥大教育学部、女子部は東部の郷家(こうげ)というところにあったそうだ)に通い、でも戦争中で、殆ど勉強せず愛知県に動員で行き工場で働く。教員生活の初めは、何も教わっていないのに、勤まるのか不安が大きかった、と聞いた。万能町の家を初めて見たとき、こんな狭い家に、しかも隣とくっついているような家に住むのか、と口には出さなくてもがっかりし、不安だったと最近になって聞いた。今は90になる母の20代終わりから30代半ばころの話になる。
8年前米子に帰った時、そういえば児童図書館はどうなっているのか、今もあるのかと思い行ってみたが、なくなっていた。米子図書館に児童書もあるし、と、追及しないまま時間が経っていたが、思いがけず、図書館友の会で出かけたときに、バスの隣の席の方から経緯を聞いた。驚いたし嬉しかった。そして図書館のリファレンスで本を見つけてもらい、読んでみたら、あっさりと米子でどんなことが起こっていたのかがわかった(2)。さすが地元のことは地元の図書館で、ということを実感。児童図書館が建設されたのが昭和39年だそうで、39年といえば私は11歳、小学校5年生で、記憶と一致する。児童図書館はいま、プラネタリウムが新しくなった米子市児童文化センターにつながっているのかと思うと感慨深い。
気になっていた児童図書館のことで、出会いがあり、ほぼ初対面なのにあれこれ疑問に答えてもらい、いろいろなことが分かった。「気にかけ続ける」ということが大切だと実感した一コマ。
※トップ画像は1963(昭和38)年に開業した百貨店「米子ストア」(米子市東町)の屋上にて。現在は中国労働金庫米子支店が建っている。
1.日常記憶地図は、「よく行く場所」「よく歩く道」を地図にマッピングすることで、個人の日常や記憶、愛着を取り出し、アーカイブすると同時に、その土地の特性や歴史を垣間見ることができる手法です。この連載は、2019年8月から12月に掛けて実施した連続講座「日常記憶地図ー子どもの頃の場所と風景を思い出すー」で参加者が綴ったテキストを順次紹介します。(参考:https://totto-ri.net/news_mylifemap2019/)
2.米子での図書館設立は、昭和に入ってもなかなか進まず、当時の財政力では米子独自の図書館設立は困難とされ、鳥取県立図書館の米子分館ができる。そしてやっと米子市立図書館ができたのは昭和17年。しかし、児童図書はわずかに100冊に過ぎず、「米子青年会議所」が子供のための図書館の必要性を感じ「児童文庫」を経て児童図書館を建設したのが昭和39年。この児童図書館と自動車文庫の両方の機能を、ということで、米子市児童文化センターの構想が始まった。(出典:「図書館のにぎわう街に」1993年/松尾陽吉著、「米子市40周年史」昭和43年)