こどものわたしがいたところ
「日常記憶地図」で見る場所の記憶 ♯5
アキオ・定夫/米子市皆生
海とともに育った街
自宅や近所の風景、何度も訪れた秘密基地、学校からの帰り道、初めての一人暮らしのまち。何気なく繰り返される私たちの生活の記憶の数々は、少しずつ集積されることで、その土地の新たな姿をかたちづくるのではないでしょうか。
言語化やコミュニケーションをテーマに表現活動をされてきたサトウアヤコさんのメソッド「日常記憶地図」(1)の手法を用い、鳥取にゆかりのある方々がそれぞれにかつて暮らした場所の記憶を文字と写真で綴ります。
今回は比較的年代の近いふたりがそれぞれの記憶を語り、相手の言葉からさらに引き出される記憶を元に記録した日常記憶地図です。
今回の“わたし”
名前|アキオ・定夫
エリア|鳥取西部のまち皆生。皆生温泉をはじめ海、川、松林などの自然豊な場。
当時の年齢|アキオ:小学生 / 定夫:小学生
時期|アキオ:1955(昭和30)年〜 / 定夫:1955(昭和30)年頃~
その土地に住むようになった経緯|
アキオ:戦後皆生にできた市営住宅に、小学校2年生の時入居した。校区外の皆生から元の米子市立啓成上小学校(米子市角盤町)に卒業するまで徒歩で通った。その後は米子市立第二中学校(二中 / 現在の米子市立図書館周辺の位置)に通う。
定夫:親が皆生村(本村 / 米子市皆生1丁目周辺)から独立するときに、海が好きだという理由で皆生温泉へ出てきた。郵便局の近くの家に住む。
※当時の農家は長男が家を継ぎ次男以降は実家を出るのが一般的であった。皆生温泉で一旗揚げようとする人もいて、父親にもそうした考えがあったとのことである。
よく行った場所
防空壕
定夫:小学校の頃の昔の家、隣の隣に順一さん(こどものわたしがいたところ#4に登場)の家があったんです。空襲があるときには、姉なんかは順一さん宅の防空壕に入ってた。私は生まれてないので入ってないですが。当時は各家庭で防空壕を掘っておったですが、親父はもう兵隊に出ておりましたから、他の家に入れてもらいよった。
アキオ:新田(皆生温泉街の東側)に立派な防空壕(2)があるじゃないですか。釣り道具屋(釣具のポイント)の裏あたり。コンクリートで民間の防空壕ではないね。その頃はまだ他にも防空壕がありましたよ。飛行機や自動車の防風のガラス、セルロイドいうんか…火を付けると匂いがするのを拾いにいくとかね。私は拾ってないけど聞いた話で、薬きょう莢(発射薬を詰める容器)がちょっとあった。鉄ですからお金にするんです。米子の博労町3丁目のところ、工業高校の前に。固まったら売れる…。どこかにまだ防空壕があったと思いますよ。そういうところに子どもは遊びに行く。
路地
アキオ:遊びって言ったら、釘倒し。人のやつを取ったり、負けたりするやつ。この地区からあこっち(他の地区)に行ったり…喧嘩まではしません。子ども同士が、あんまり遊ぶ事がなくて、釘倒しを。⻑い五寸釘を拾ってきて遊ぶですな。新しい家が建とうとする工事現場があるでしょう。大工さんやちが落とした釘やちがそこらへんに。それをちょっと拾わしてもらって。頭のいい子は磁石で引きずっとる子もおりましたけど。
日野川
アキオ:河口に魚釣りに行ったんです。行きがけに糸と針だけを買って、棹は竹やぶから竹を切って、田んぼの水に入れるときには、3センチか4センチぐらいのフナのちっちゃいやつを捕って、日野川に行ってそれを餌にセイゴ(成魚になると前のスズキ)釣り。これがよく釣れた。だけん買ったのは糸と針だけ。小学校のときだけだね。魚屋ってどこにあっただろう。米子に行って買ってきたやつを使ってたかもしらんし。ここはものすごい(魚が)おりました。今では砂がついて(たまって)、こっち側(日野川河口の東側)だけ水が流れるのが変わってますけどね(3)。いろんなもん捕れるでしょう。網で捕るとか。
海
アキオ:海でヤス(小型の銛)を使って…3本槍でこれだけを買って。柄は竹でゴムを巻きつけて引っ張ってストーンとやる。アオデガニ(青い爪のカニ)、今でも高い魚だけども、菱形のようなカニ。それからカレイとかね。動かんやつ。テトラポッドありましたからね。よく魚が寄ってきます。まず第一にお金がかからないという遊びだな。そういう遊びしかできだった(できなかった)という。
*
定夫:よく死体が上がってきましたね。いまふっと思い出しました。こっち(日野川)のほうから流れ流れて。「豆腐岩」(4)があります。
アキオ:四角いね、正方形をずーっと綺麗に並べた。これは崩れますけんね。今はツノが生えた…(テトラポッド)。
アキオ:合うような格好によう考えた。(テトラポッドは)だいぶ後ですよね。最初は「豆腐岩」ばっかりで、間が空いとって。
定夫:間にぷかぷかと。お巡りさんがね、ズボン濡らしながら引っ張り上げたり。
*
定夫:家からすぐ海へ出てね、海水浴してました。もうそれしか遊びがないですから。6年生の先輩がおって「おーい集まれい」というと、みんなが「出らあ、出らあ(行こう、行こう)」と集まってくるという。水泳パンツで、ふんどしの子もいましたよ。みんな裸で走って。近所にはいっぱい人がいました。裸足でパンツ一丁でいくだわね。ご婦人方もシミーズ(女性用の下着)一枚で、水着なんてなかったですよ。場合によっては裸だった。子どもながらにはぁ?って。
畑 / 松林
アキオ:養護学校があってね、奨徳学校(現:喜多原学園)。今のバッティングセンター(皆生温泉街の西側)らへんに畑がいっぱい、自分らで自給自足しとったみたい。芋、とうもろこし、野菜、いっぱい作りよったんですね。ここら辺の悪ガキは、魚捕りがたいぎ(面倒)になったら、冬は芋掘りして松林で焼いて食べるとかね。全部松林です、ずーっと。だいぶ少なくなりましたけどね。
松露がたくさん採れよったですよ。松の木の下にあって、ばりん(熊手)で刈って。これがまた吸い物に美味しい。高級品。私はした事ないけど、旅館に持っていくと、1号いくらと。だんだん少なくなってくると、よけいに旅館さんは欲しがったかもしらんね。夏が松露で、冬が黄色いシモタケ。ここら辺の松林にはそういうキノコが、夏は夏、冬は冬で採りよった。今の松は全部大きんなりましたんでね。あの松が大体1〜2mくらいの時、ずっと海沿いにあったんじゃないですかね。境(境港)とかまで。(松露は)小さい松でないとできんわけだから、松の植え替えをやってでもね、その菌がどういう格好で増えるかよくわからんけど。
車庫 / 浜
アキオ:今の観光センター(米子市観光センター)のあるところに電車が入ってる車庫がありましたね(5)。電車が走ってるところは見たことありません。.私の生まれるまでには無くなってるはずです。鉄道を軍にとられたです。あとに残った砂利道に大八車で砂鉄を、馬車で引いて安来(島根県安来市 / 米子市の西側に接する)に行くのは見たことがあります(6)(7)。わしその道路通ってました。
アキオ:砂鉄を運んだ。砂鉄が皆生の浜にありましたから、波打ち際に黒く層になってましたよ。今はちょっとしかないでしょ。それを私ら集めて、固めて投げあっこしたりね、遊んだだけですよ。
日野川の奥にたたらを作る里(奥日野/日野川の上流の地域)(8)があるんです。そこが「鉄穴流し」っちゅうかな、川に砂を流して鉄分だけを取ろうとする、だけどその鉄分がどうしても流れて、どんどんどんどんこっち(皆生)に溜まってきた。砂鉄以上に砂がものすごく出てきたですからね(9)。
定夫:生山(鳥取県日野郡日南町)の木下家(鉱山師の一族)が馬車で何台も連ねて出しよったゆうことですね、いま日立製作所のある安来に。
アキオ:皆生海岸にいっぱい流れてくるでしょう。それを馬車に積んで、ちょこちょこっと持っていきよっただね。だけんまあ、馬車で荷物を運ぶ時代に、小学校に通ったという。
車庫 / 浜
アキオ:今の観光センターヴィラのあるところに電車が入ってる車庫がありましたね。電車が走ってるところは見たことありません。.私の生まれるまでには無くなってるはずです。鉄道を軍にとられたです。あとに残った砂利道に大八車で砂鉄を、馬車で引いて安来(島根県安来市 / 出雲地方東部)に行くのは見たことがあります。わしその道路通ってました。
アキオ:砂鉄を運んだ。砂鉄が皆生の浜にありましたから、波打ち際に黒く層になってましたよ。今はちょっとしかないでしょ。それを私ら集めて、固めて投げあっこしたりね、遊んだだけですよ。
日野川の奥にたたらを作る里(奥日野)があるんです。そこが「鉄穴流し」っちゅうかな、川に砂を流して鉄分だけを取ろうとする、だけどその鉄分がどうしても流れて、どんどんどんどんこっち(皆生)に溜まってきた。砂鉄以上に砂がものすごく出てきたですからね。
定夫:生山(鳥取県日野郡日南町)の木下家(鉱山師の一族)が馬車で何台も連ねて出しよったゆうことですね、いま日立製作所のある安来に。
アキオ:皆生海岸にいっぱい流れてくるでしょう。それを馬車に積んで、ちょこちょこっと持っていきよっただね。だけんまあ、馬車で荷物を運ぶ時代に、小学校に通ったという。
野口商店 / 射的屋
定夫:野口商店、今でもやってる。娘さんが。娘さん言うてもいい歳ですよ。もう小遣い持って毎日ですよ。お菓子やビー玉…小遣いが5円でした。5円持っていくと…
アキオ:1円でピーナツの大きいやつが2個買えた。大きいやつで、中にピーナツが入っていてカラカラというやつが2個で1円でした。5円って言ったら、こげながいな(大きな)飴玉じゃない?
あと買ったのはビー玉ですね。あと「喧嘩ゴマ」。鉄でできたコマで…自分のために買うのではないです。人と勝負するためにね。持っていくか借りるかしないと、輪の中に入れない。
*
定夫:道路が遊び場ですから。(道の)引っ込んだとこでしたね。
アキオ:前には射的屋があった。今も名残があるね、家だけ。よく映画でもでてくる、鉄砲で人形落とすやつ。落とせば物がもらえる。
アキオ:大人の遊び場とか子どもの遊び場とか、確かにあった。今は旅館の中に食べ物屋さんがあって、とにかく外に出さないように。前は旅館は飯食うところだけだったね。だけんなんかしようと思うと、男はみんな外に出る。
皆生道路
定夫:皆生道路、松浦酒店らへんから、だらーっと進駐軍が歩いてましたけんね。ダンスホールがあったです。休みになると進駐軍が来よったです。
アキオ:今がメノウやさん(大下めのう店)、土産物屋になって角に。あそこらへんだがんな(ですな)。
歯医者
定夫:「はまや」。歯医者さん。
アキオ:歯医者さんも何件かありましたね。後から「坂根」さんも。
定夫:「はまや」さんしかなかったから、いつもいっぱいですよ。今みたいに優しくないから、痛いけど「黙っとれ!」なんて言われて。麻酔も打たんですね。
マルワプール / バンガロー
アキオ:高校くらいになると、今の浄水場のところに大きな敷地のプールがありましてね。米子に「マルワスポーツ」があって、「マルワプール」って言いよったですね。25mと50m。手前に子ども用のちっちゃいプール。宿舎みたいなバンガローもあって、高校の時に借りまして、合宿したです。「プールを貸す、泊らせる代わりに掃除せえ」と。50m x 25mのプールの深さが1.2〜1.3mぐらいで、10人ぐらいで洗うとしたら、ちょっとやそっとではね。いくらタダにするといってもね。昭和38(1963)年にすっごい大雪(10)があったんです。雪の重さでバンガローが潰れましたね。
丸山商店
定夫:なんでも屋さん。よろず屋ですね、なんでも売ってました。
アキオ:酒もあった、電気も扱っとる、食品も文房具もあった。このおじいさん、丸山さんはレコードも好きで、いろんな物を揃えちょんなった。
定夫:ここのお母さん、ばーさんですよ、進駐軍相手に英語やりなるです。今思えば簡単なことですけど「ワンツースリーなんてやな、英語ができーだわ」なんて、ちゃーんと見てました。
アキオ:昔は店や(は)物じゃなくて人だね、得意な(ことがある)変わったおじいちゃんおばあちゃんがいてな。
運動場 / 競馬場跡
アキオ: 皆生の入り口の方に運動場があって、皆生の方は運動会されてました。
定夫:観光センターのところが野球場だったです。正式のじゃないですよ。遊びといえば野球で、サッカーなんてあらしない。運動会は今の海浜公園。競馬場跡。(11)
アキオ:運動会やっとんなったのを他所ながらいいな〜って見とった。温泉の人だけで集まって賑やかしにやっとるなって。海浜公園はだいぶあとだけんね。
愛着のある場所
海
アキオ:友達が「豆腐岩」をテッテッテと走って、先に飛び込もうとしただがん(んです)。岩と岩の間に足を挟まれつかえて…。
定夫:「豆腐岩」の上から飛び込むのはようやりよったです。
アキオ:足を持って(抱えて)帰るときに傷が切れるだがん(んです)。最初は血が出ずに、骨が白になって。背負ってうちに帰って。200mくらいなもん。おばあちゃんが看護婦(看護師)さんだったけん、なんとかしてごしなった(くださった)。
*
アキオ:海との関わり合いが遊びの中では多いけん。一番面白いのは、台風の大波の時に渦に巻かれないこと。沖に出て潜ると音と泡で波が上を通っていくのがわかった。怖いって思ったことない。競争したり、魚を捕ったり、遊びの中心でしょうな。
定夫:やっぱ海ですね。ガキ大将を中心にみんなで。小学校の海の家でもふんどしが多かったですよ。海水パンツと値段が全然違うしね。
アキオ:学校の海水浴は、皆生じゃなくて淀江(旧西伯郡淀江町 / 米子市北東部)海水浴場に行きよったですけ。小学校の講堂を借りて、着替えて下まで走って行ってね。皆生は怖いところと言われとった。以前は遠浅だったようだけど、波は強いし急に海が深くなる。
2022年8月2日 聞き手:山本千夏
1.日常記憶地図は、「よく行く場所」「よく歩く道」を地図にマッピングすることで、個人の日常や記憶、愛着を取り出し、アーカイブすると同時に、その土地の特性や歴史を垣間見ることができる手法です。この連載は、2019年8月から12月に掛けて実施した連続講座「日常記憶地図ー子どもの頃の場所と風景を思い出すー」で参加者が綴ったテキストを順次紹介します。(参考:https://totto-ri.net/news_mylifemap2019/)
2.旧日本海軍の美保海軍航空基地の掩体壕(えんたいごう / 軍用機などの装備や物資の格納庫)である。
3.日野川は古代より「たたら製鉄」で上流から流れてくる砂の影響で、河口の形はその時々で変化している。現在は河口の西側に砂がたまり、東側から海に水が流れ出ている。
4.海岸の侵食を防ぐため、戦後の1947(昭和22)年に、豆腐型の大石を積む護岸工事が行われた。テトラポットの工事は1971(昭和46)年で、以降砂浜が復活している。
5.皆生と米子駅を結ぶ米子中央線は1938(昭和13)年に軍によって廃止された。
6.皆生には運送屋のような商売の人がいて、大八車や馬車で荷物を運んでいた。米子市街地までは数日かかっていた。参考:松浦茂氏の伝承「皆生温泉ふるさと伝承」
7.島根県では古代よりたたら製鉄が盛んであったが明治以降近代化が進む。明治末に安来に製鋼所が設立される。
8.明治時代以前から海岸で漁業と浜砂鉄(砂浜で採取される砂鉄)の採取がおこなわれていた。
9.1921(大正10)年頃に日野川上流での砂鉄生産が終わるまで、大量の土砂が流され皆生海岸の砂浜となっていた。大正末期から昭和初期にかけては、遠浅の砂浜での海水浴が盛んであった。その後、海岸の侵食が始まる。
10.昭和38年1月豪雪は1962(昭和37)年12月から1963(昭和38)年2月にかけて、北陸から九州にかけて日本海側に雪害をもたらした。米子市の最深積雪量は当時観測史上1位の80cm。
11.1964(昭和39)年、競馬場跡地の北東に皆生海浜公園が完成した。
写真提供
※1 皆生松月 ※2 鳥取県立公文書館 ※3 皆生温泉観光株式会社 ※4 国土交通省日野川河川事務所
※この記事は、皆生温泉エリア経営実行委員会が2022年8月2日に実施した「日常記憶地図 皆生編」のワークショップで参加された方の語りをベースに、追加ヒアリングを行っい再構成しています。また、実施にあたっては令和4年度鳥取県アートによる地域活性化促進事業補助金を活用して作成しました。