こどものわたしがいたところ
「日常記憶地図」で見る場所の記憶 ♯1
マサヒコ/鳥取市河原町西郷地区
周りの世界を吸収しながら、自分がこの世に存在しはじめた場所
自宅や近所の風景、何度も訪れた秘密基地、学校からの帰り道、初めての一人暮らしのまち。何気なく繰り返される私たちの生活の記憶の数々は、少しずつ集積されることで、その土地の新たな姿をかたちづくるのではないでしょうか。
言語化やコミュニケーションをテーマに表現活動をされてきたサトウアヤコさんのメソッド「日常記憶地図」の手法を用い、鳥取にゆかりのある方々がそれぞれにかつて暮らした場所の記憶を文字と写真で綴ります。
※日常記憶地図は、「よく行く場所」「よく歩く道」を地図にマッピングすることで、個人の日常や記憶、愛着を取り出し、アーカイブすると同時に、その土地の特性や歴史を垣間見ることができる手法です。この連載は、2019年8月から12月に掛けて実施した連続講座「日常記憶地図ー子どもの頃の場所と風景を思い出すー」で参加者が綴ったテキストを順次紹介します。(参考:https://totto-ri.net/news_mylifemap2019/)
今回の“わたし”
名前|マサヒコ
エリア|鳥取市河原町(旧八頭郡河原町)西郷地区。現在は鳥取市の一部だが当時はまだ八頭郡の町で、役場が機能していた。住んでいたのはその中でも南西の、町の中心から離れた地域で、川沿いの谷に住宅と田畑が広がる。古くから住んでいる人が多い。
時期|1990年代前半
当時の年齢|10歳ごろ
その土地に住むようになった経緯|家族が代々住んでいるから。
よく行った場所
旧西郷公民館
祖父の主催していた版画教室があったり、「にじの部屋」という図書室の朗読の会があったりして、折に触れて通っていた。小学校の卒業式の後の謝恩会もこの公民館で行われた。現在は老朽化のため、西郷小学校の隣に新しい公民館が建てられている。
幼馴染の家
同じ部落の同級生の家。ジャンプ、マガジン、サンデーを購読していて、同じ部落の子どもたちの溜まり場になっていた。「ドラゴンボール」、「幽遊白書」、「ろくでなしブルース」などの記憶は、この友人の家と切り離せないものになっている。とはいえ漫画に惹かれていただけでなく、友人兄弟が人を受け入れる人柄だったことも、この家によく遊びに行っていた理由だと思う。
三滝渓
西郷地区の谷を一番奥まで行ったところにある滝。大きな滝を高くから見下ろせる場所に赤い吊り橋がかかっていて、遠足やバーベキューなどで度々訪れていた。年に一度あったウォーキングラリーで景品を狙うのも楽しみだった。
吉田商店
幼馴染のおばあさんがやっていた個人商店。お菓子や食べ物等を売っていた。小学校の頃まではやっていた気がするけれど、いつからか行かなくなり、気がつくと閉店していた。小さい頃はそんなにお金は持っていなかったから、何を買っていたかあまり思い出せないけれど、「ビッグ・カツ」というお菓子を買った記憶はある。すぐ近くに髪を切ってもらっていた散髪屋があって、その帰りなどにちょくちょく寄っていた。おじいさんが生きていた頃には、その二人と幼馴染のお父さんも手伝って、毎週土曜の朝、家の前に魚やいろいろなものを並べる朝市を開いていた。
前田橋
自分の住む部落と、川のすぐ側にある隣部落の間にかかる橋。橋のたもとに友達の家があるのでよく通った。名前がたまたま自分と同じなので、その由来も気になっていた。
実家の果樹園
家の裏山に曽祖父がはじめた梨の果樹園があり、小さい頃は時々手伝いに登ったり、遊びに行ったりした。果樹園には梨を運ぶためのモノレールが引かれていて、それがコンテナに詰められた梨を運び、レールが山へ登った頂には、梨やいろいろな道具を置いておくための小屋があった。受粉や摘果の時期は忙しいので、近所のおばあさんやお母さんたちに手伝ってもらい、手伝いのお礼として、その時期には毎年たくさんお菓子や缶コーヒーを買って渡していた。そのお菓子が家の納戸にたくさん積まれており、子どもの僕たちがそれを自由に食べることはできなかったけれど、それでも果樹園に手伝いに行って、そのおやつをもらって食べることは楽しみだった。果樹園を続けていた祖母も高齢となり、だいぶ前に木は伐ってしまい、今は雑木と草が生えるだけになっている。
堤(つつみ)
果樹園の横にあるため池。堤の土手では、毎年7月15日頃、万灯(まんどう)さんと呼ばれる行事が行われる。昼間大人たちがため池の周りの草を刈り、夕方になると麓の家から母や祖母、子どもたちがお重に詰めた食べ物を運んでいく。草を刈った土手の上で、たくさんの蝋燭を笹の枝に挿して火を灯し、運ばれてきたご馳走を広げて宴会をする。これは虫除けの儀式だと言われていて、子どもたちも大人にまぜてもらい、池や麓の家々を眺めながらご馳走を食べる。食べ物の中身は家によって様々だったが、特別なものというよりは、玉子焼きや唐揚げ、とうふちくわ(鳥取でよく食べる、魚のすり身に豆腐を混ぜたもの)といった、よく弁当に入るおかずだった。大人たちは酒を飲み、日が落ちる頃にはみんなそれぞれの家へと帰っていった。
稲荷さん
実家の前にあるお社。年に三度、神主さんが拝みに来る祭礼があり、そのうち一回は社の横の社務所で、神主さんが拝んだ後お籠り(1)をする。その時には子どももついていって、大人と一緒にご馳走を食べていた。
旧西郷農協
地域の数少ない小売店の一つで、小学校の遠足などの前に、友達とおやつのお菓子を買いに行っていた。お金など滅多に持つことがなかったので、買い物はドキドキした。チロルチョコやビックリマンチョコを買っていたと思う。農協の前では「百円市」という野菜の市が毎週開かれていたが、農協の閉店と前後して終了し、現在は行われていない。
西郷郵便局
同級生のお母さんが局員をしていて、お年玉をもらうとここに預けに行った。自分の通帳を作っていて、正月にお金を預けると記念品をもらえた。子どもの頃は、使わずにずっと貯めていた。
ヤマト代理店
西郷地区から少し離れた曳田集落にあり、母が荷物を出しに行くのによくついていった。また家には、母の実家の新潟から荷物が届くことがあった。クリスマスの頃、祖母からお菓子の入った銀色の紙の長靴が送られてきた記憶がある。
鳥取県立博物館
両親に連れられて、よく展示を見に行った。子どもの頃は展覧会に行くのが退屈だと思っていて、展示の内容はあまり覚えていないのだが、博物館の中の静かな雰囲気は、ずっと体の中に残っている気がする。今でもそこへ行くと、とても落ち着いた気分になる。建物の一階にはレストランがあり、子どもながらに、入ると少し贅沢なものを食べているという気持ちになった。
愛着のある場所
旧西郷公民館(2)
毎年冬になると、この建物で木版画を指導していた祖父の年賀版画の教室があり、通っていた。会場となっていた三階の床は、コンクリートに塗装をしただけで冷たく、石油ストーブで部屋を温め、新聞紙を敷いてその上で版を彫ったり、紙に刷ったりした。もともと公民館にしみついていた匂いなのか、その時使っていた絵の具などのものなのか、オイルのような匂がして、その匂いとストーブの匂いが入りまじり、この場所の記憶とともに残っている。祖父は現在は高齢で引退しているが、以前は小学校の図工の教師で、家でもいろいろなことを教えてくれる存在だった。
版画の他によく覚えているのは、階段の登り方を教えてくれたこと。祖父は実家の母屋の、普段あまり使われていない二階の部屋を版画の作業部屋にしていて、幼い僕と弟はよくそこをのぞきに行った。その時階段が急だったので落ちないように、こうやって登るんだと、両手をついて階段を上がる仕方を教えてくれた。祖父は手先が器用で、版画以外の木を使った工作をする時にも道具の使い方や、手を傷つけないよう気をつける方法を教えてくれた。
公民館の二階には、母と同世代の母親たちが有志で集まって作った「にじの部屋」という小さな図書室があった。「お話の部屋」という朗読会もあり、時々通っていた。図書室は同級生の何人かの親たちが交代で当番をしていて、にじの部屋の主催で、毎年12月にはクリスマス会も行われていた。
小学校の卒業式の後の謝恩会も公民館で行われ、この頃の生活の節目節目に、公民館は大事な場所として存在していたように思う。この建物は現在は老朽化により使われなくなり、新しい公民館は小学校の隣に移転しているが、古い建物も権利関係で壊せないらしく、現在もそのままの姿で残っている。
三滝渓
自分の住む西郷地区の一番奥にあるこの滝が、なぜか好きだった。滝の麓にはバンガローやバーベキュー施設、川魚の釣り堀などがあり、当時はそれなりに流行っていた。また山肌に穴があり、そこから冷たい冷気が出てくる「天然クーラー」なる場所もあった。そこから30分ほどきつい歩道を歩いた場所に、大きな滝を高くから見下ろす赤い吊り橋がかかっていて、そこまで行くのは子どもでも息が切れたが、橋の上からの景色が好きでよく登った。
遠足やバーベキューなど、部落や学校の行事などで三滝には度々訪れ、年に一度秋にあったウォーキングラリーに、友達と参加して景品を狙うのも楽しみだった。一度何等かに入って小さな電卓をもらい、無性にうれしかったことを覚えている。当時は現在ほど身の回りに電子機器が溢れておらず、電化製品に田舎の里山の日常にはない、刺激や新しさのようなものを感じていたからだろう。
河原町が鳥取市に合併したこともあってか、市域の最奥に観光地として力を入れる動きもなくなり、三滝渓は近年はさびれて寂しい場所となっている。しかし個人的には、今でも好きな場所だ。
作業を終えて
今回、この記事を書くために、上に記述した場所を歩いて写真を撮った。田舎なので実際の風景はほとんど変わっていないけれど、それでも今自分がそこを歩くと、やはり記憶の中にあるその場所とは、決定的に何かがずれてしまっていると感じる。風景を見るこちらが変わってしまったことは大きいと思うし、他方はっきりと目には見えなくても、場所の方にも微細な変化があるのかもしれない。
文章を書く上で、過去の自分に関係する写真を見返しもしたが、以前よりそこから受ける印象が強くなっている気がした。自分が年齢を重ね、写真に写った時との隔たりが大きくなったからかもしれないと思うけれど、本当のところはまだよくわからない。
「日常記憶地図」の作業を通して、これまで断片的に抱えてきた過去の記憶を、ある一定の空間の中で関連づけ思い出すという、新しい経験をすることができた。その作業は、自分の中でこれまで作っていた過去の物語を、思い出しながら解体し、少しずつ組み換えていく過程だったように思う。その作業を、筆者は今も続けている。
1.民俗学者の柳田國男によれば、「御籠り」は元々は祭りなどの神事の際に働く者の穢れを清めるため、祭りの前に長く日常世界から離れ、社務所などに籠ることを意味するという(柳田國男「祭りのさまざま」)。鳥取では村の共同作業を行なった後に行われる、班長の家での慰労会を「ゴチョウゴモリ」と呼ぶ地域があるようだ(喜多村正「鳥取における村落の自治組織とゴチョウ(伍長)制」『山陰の暮らし・信仰・芸能』山陰民俗学会編、ハーベスト出版、2019年、4~6頁)。筆者の集落では「ゴチョウゴモリ」の呼称は使わないが、実態としては後者の意味に近いといえる。
2.町誌によれば、西郷公民館は昭和30(1955)年の町村合併時に、西郷小学校の一室が公民館として使用され、その後昭和37(1962)年にこの公民館が作られた。「当時県東部でも人の眼をみはる立派なものであった」という(河原町誌編集委員会編『河原町誌』河原町、1986年、884頁)。