こどものわたしがいたところ
「日常記憶地図」で見る場所の記憶 ♯4
義昭・順一/米子市皆生
海とともに育った街
自宅や近所の風景、何度も訪れた秘密基地、学校からの帰り道、初めての一人暮らしのまち。何気なく繰り返される私たちの生活の記憶の数々は、少しずつ集積されることで、その土地の新たな姿をかたちづくるのではないでしょうか。
言語化やコミュニケーションをテーマに表現活動をされてきたサトウアヤコさんのメソッド「日常記憶地図」(1)の手法を用い、鳥取にゆかりのある方々がそれぞれにかつて暮らした場所の記憶を文字と写真で綴ります。
今回は比較的年代の近いふたりがそれぞれの記憶を語り、相手の言葉からさらに引き出される記憶を元に記録した日常記憶地図です。
今回の“わたし”
名前|義昭・順一
エリア|鳥取西部のまち皆生。皆生温泉をはじめ海、川、松林などの自然豊な場。
当時の年齢|義昭:11歳-18歳(小学5年生-高校生) / 順一:5歳ー6歳
時期|義昭:1948(昭和23)年〜 / 順一:1948(昭和23)年-1949(昭和24)年頃
その土地に住むようになった経緯|
義昭:小学校1年生の夏休みに朝鮮半島で終戦を迎え、大邱(現:大韓民国東南部の都市)から米子に引き揚げてきた。米子市河崎に住み、米子市立加茂小学校(現在の博愛病院の位置)に通っていた。父親が警察勤務で1951(昭和26)年に皆生の市営住宅に入居し、米子市立第二中学校(二中/現在の米子市立図書館周辺の位置)に通う。
順一:父親が本家から独立して、3歳ぐらいの頃に皆生温泉に家を買った。
よく行った場所
市営住宅
義昭:皆生温泉4丁目は「弓ヶ浜荘」(旅館)の西側に一つの住宅の塊があるんです。一番古いのが引揚者の住宅だった。最初四軒長屋が4棟できていたんです。それまでは昔の「温泉クラブ」の前に3階建てくらいの大きい建物があって、1階に引揚者(2)住宅が入ってた。そこから優先して16世帯がここに入ってきた。終戦後すぐの昭和21(1946)年か22(1947)年。その後に二戸建てが何軒か2列くらいできて、更に一戸建てが20何軒かできてきた。この時入ってきた人はほとんど公務員で、学校の先生や警察官や鉄道の人たちだったんです。私の父は警察官だったのでここに取れたんで。
将来人口が増えるから、この地域を切り拓いていこうということで始まったんです。その初期で、引揚者住宅だとか、焼けだされたか転勤して入るところがない人に競馬場(皆生競馬場)の跡地があてがわれた。私は昭和26(1951)年にタイミングよく、皆生や福米の人と一緒になって二中(米子市立第二中学校)に4月から入ることができた。
順一:当時は市営住宅なんて初めてのケースだけん(3)。やっぱり住まわれてる人たちは、みんな近所で助け合いしながらね。
競馬場跡
順一:ちょうど住宅ができて東側の方に”山”(砂の丘にできた雑木林や松林)を一つ挟んでね、競馬場(皆生競馬場)(4)の跡。ここは”山”でね。今の「天水」(皆生天水グランドホテル)までほとんど”山”。海岸までね、馬場を広くとって、市営住宅の人は跡地で運動会をしたり。一歩外へ出たら松林だもん。その中で狐が出るとか。拓けたところは競馬場だけん。一面草っぱらみたいなところだったけん。
義昭:この周りの道路がほぼ200mぐらいの直線距離取れるので、市営住宅の運動会をね。
田んぼ道
順一:競馬場の真ん中辺にね、田んぼ道があって、この住宅ができた時点で初めて皆生温泉から出たところはね、バスの停留所なんですよ。今の皆生環状線、新開環状線という道ですけどね。昔の電車の車庫があって、後にバスの車庫になった。らば、この道が大きかったんだけど、住宅に行く道がなかって田んぼ道を歩いて通っちょうなった。住宅の人も歩いて出て、バスに乗って学校や勤めに行かにゃいけない。
義昭:この道はね、参勤交代みたいに各家から1人参加するように言われて。だから、子どもが出て来て。最初は人が通ってる間に道ができちゃったんですよ。トラックで土を持ってきてもらって、ずっと流していった。幅が徐々に大きくなったんですよ。
八百屋
義昭:「田村」という八百屋さんがあって。同級生だったから、そこの家をいったん親戚の人が借りて、僕はそこに高校の時1人で下宿して自炊してた。家族はみんな淀江(旧淀江町 / 米子市東部)の駐在所に引越していっちゃったから。お風呂もついてるし。お金はいらないということで寝泊まりしながら手伝いして、八百屋だから全旅館に配達。
松林
義昭:この辺から加茂小学校に通ってる先生もおって、松林の中をよく走って通っていた。松林は1人で歩くのは嫌だった。昼間はいいけど暗いと。
順一:昼でもね、薄暗かった。山の中に住んでなった人たちが何人か、自分たちの防空壕を作っておんなった。
当時はもう戦争もないしね、人も通らんしね。狐か狸が出入りするくらいなもんだけん。僕らは入らんだったけんね。今の自衛隊(陸上自衛隊米子駐屯地)(5)や皆生漁港があるところ、ほとんど松林だった。
日野川の方ね。昭和10年前半の頃に中国で、日華事変(日中戦争)があって、兵隊さんがたくさん負傷されたので、皆生温泉にそういう傷痍軍人(怪我をした軍人)さんを収容するために病院ができたの。それが米子国立病院(6)の始まりだけど。道も何もないんで皆生から山の中の小さい道を歩いて行きよった。その当時から皆生の住民は「戦争で頑張ってらっしゃった兵隊さんだけん、親切にしてあげにゃいけんぞ」ということで、地域近隣で採れた野菜を持っていってあげなんもね(あげたもんね)。
義昭:松の木の間なんかを通りながら行ってたから不気味だったのよ。
順一:病院て言ってもね、電気もないし。
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順一:「つるや」(旅館「皆生 つるや」)の東(大山側)から県道皆生車尾線(県道206号線)、皆生幼稚園まで、昼間でも暗い松林が続いていて、「三国屋」(旅館)の松林に飛行機(7)が隠してあった。5歳から小学校にあがる前まではあったと思う。アメリカに見つからないよう隠したんだと思う。子どもは飛行機の上にあがって遊んだりしていた。前面の窓ガラスの壊れた破片を拾ってきて、木でこすると(アクリル系のガラスの)いい匂いがした。大人は中の部品も持っていった人もいた。
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順一:松林で渡り鳥を捕るということで。
義昭:あるときから捕ってはいけないってなったけど。
順一:ペットなんて聞こえがええだけで、ほとんどの人は食用にするためにね、捕ってた。趣味でやる分には、子どもの遊び程度、かわいい小鳥を飼うのが目的だけど、大人がやりなるのは。
義昭:鳥かごもね、手作りでね、それが楽しみ。飼ってた。
順一:飼ってた。だから私達は、使ってもらうために一生懸命捕って、かわいいどころじゃない、金儲けだ。友達に頼まれれば、いいやつ捕っといちゃるけんって。
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義昭:弓ヶ浜荘(旅館)の建設前はね、松の木がある高さで日当たりも条件がよくてね、建つまでは3年間、表の通りで松露採り。松茸の香りがするきのこ。
順一:今の五条通り(8)に豆腐屋があったでしょ。角の辺は旅館があって、「吐月堂」ってお菓子屋さんがあった。
義昭:皆生のね、唯一のお菓子屋さんで。
順一:和菓子屋さん。近所の人が松露をたくさん取ってきたのをね、買い集めて加工して松露饅頭にして、各旅館で待ち受けに使ってもらいなった。それで大儲けした。この100年間皆生唯一の地産地消の和菓子だった。いや本当に。
義昭:アルバイトで鉄くず拾う採るより良くて。雨が降ると、熊手で採って小さいバケツに2杯ぐらいにして売りに歩いた。「専属で持って来るなら、少し高く買ってあげる」って言われて、毎日僕は売ってました。家ではほとんど食べない。吸い物にして、朝出してあげて。
順一:いい香りがしよった。料理にも使いよったよ。今はない。「吐月堂」ももう店じまい。松露羊羹も皆生土産として土産店で販売していた。
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義昭:松露の他にボウフウが採れたね。
順一:これも昭和の初め、10年代で日華事変(日中戦争)が起きたときに、兵隊さんが水が悪いけん腸を痛めなあだ。このボウフウの根っこを丸薬にして、送うだ。そのためにこの皆生の浜でボウフウ根採りってのが、学生も出させられた。学徒も出ただーか(9)。とにかく採ってね。食べた。今でも食べますよ。春先の根が柔らかい時にね。唐揚げや天ぷらにして。薬だ言って。今も一部の場所では採れている。(10)
海岸
義昭:「地引き網の手伝いに来てください」ってね。木の板を叩くんです、カンカンカンカン叩くんですよ。バケツ持って。今は動力だけど、当時は人間の手でね。獲れた魚の…
順一:あの頃の地引き網は4つか5つぐらい。朝早く網打つと、魚の形した板があって、それをカンカンカンカン叩きますと、その調子で「どこの網だ」って、部落の人は「鐘がなったけんここだぞ、あそこだぞ」って言って。網あげると漁師さんがね、丸い魚を坂の上に置いてごっしなっとった(くださっていた)。手伝った人に来た順番にずっと「取れ」って。魚がもらえる。それを帰って洗って煮てもらって食べようと。
義昭:中学生の頃にね、バケツ2杯くらいサバが獲れたと持って帰ってね。親からね「そんなにサバだけもらってきて、すぐ傷む、どうやって食べるんだ」と。
順一:昭和30年代くらいだったかな、サバがものすごい獲れてね。ものすごい接岸して。たくさん獲れてね。地域の人たちに、米子とかね、南部町(米子市の南側)にも売りに行きよったですよ。何日も何日も大八車(木製の荷車)で。
義昭:境(境港)の方で干拓しだして、だんだんだんだん進んでる間に海の流れが変わってきて。ニッパ(日本パルプ工業)(11)ができてからね、毎日泳いでいた海が茶色くなってね。日本パルプは公害関係でいけんようになって…、今は王子製紙に変わって。
義昭:同じ海流で廃液を処分しながらやっていくわけだから、だんだんそういう海の流れで、その頃から獲れなくなったと言われるように。
温泉クラブ
順一:住宅にはなかった五右衛門風呂だった。郵便局(現在の皆生郵便局より北東位置)の海側の方に大衆公衆浴場が。
義昭:「温泉クラブ」(12)としてね。毎日行ったもんな。
順一:行ったもんな。冬場、秋とか冬はね、よく行った。夏は海に行って行水なんだけど。子どもだけ走って行って、親は後からついてくるぐらいのことだけども。
駄菓子屋
順一:皆生にはね、駄菓子と雑貨店と八百屋さんぐらいしかなかったんだけん。そうも3軒。昭和10年代。酒屋も、雑貨屋して酒屋もするだ。丸山さんという家がああだけど、電気製品とかそういうもんも売っちょうなった。酒も売っちょうなった。ずっと後はだんだん手広げて雑貨もしなった。
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順一:田村商店という八百屋さんがあって、奥田商店という駄菓子屋さんができて、駄菓子屋さんは「東光園」(旅館)前の道のめのう屋があった隣に「藤田」さんがあって。これが皆生で一番古い駄菓子屋。飴玉とか。釣り道具とか。ここにお婆さんがおりなって、わしをがいに(とても)可愛がってごしなって(くださって)。
義昭:グリコのキャラメルと森永のキャラメルと。グリコは景品がある。カバヤ(13)は券を揃えて送るとね、少年少女ブックを送ってきて、僕は全部集めた。『小公子』やらね、世界少年少女ブック。70冊くらいあった(14)。
皆生温泉
順一:皆生温泉の花街(色街)っていうのは、戦後の進駐軍(15)がおったときだけ。別に皆生温泉に常駐してるわけじゃない。大篠津(旧大篠津村/米子市西北部。境港市に接する)に基地(現: 美保航空基地)があったもんで、そこから米兵が皆生に来るだ。だけんがいな(すごい)人数じゃないけどね。10人くらいジープに乗ってね、温泉来るだが。それでわしが「ギブミーチューイングガム」ちゅうと、ぱっぱぱっぱ投げてごすだけん。わしは顔役でガキ大将で、家の前出たところでね。(進駐軍が)来る時間ちゃーんと見ておって、チョコレートやらばらまいてね。
運動場 / バスの車庫
順一:今の観光センターのところに大きな運動場があっただ。ここで盆踊りや地区の野球大会。全長300mぐらいのグラウンドがあった。近くには、昭和10年代前半ぐらいまで電車の車庫があって、近くに駐在所があった。この辺はものすごく治安は良かったもんで、皆生の住人はここで絆を深めようと。
義昭:皆生代表で野球やりに行ったことある。少年野球大会。毎日夜ここで走っていた。競馬場跡で陸上の練習をしてたり、野球はグローブとバットがいるけど、走るのには何もいらないからとにかく走って。米子市の中学校の400m走のチャンピオンになった。本当は野球の方が好きだったけど(大会に)出たら勝っちゃって。
順一:運動場があって、駐在所があって、電車の車庫があって。車庫は改造して、バスの車庫になったからだね。だけん日の丸バスが一晩泊まって、始発をここから出してって。
愛着のある場所
海 / 日野川
順一:海と川だわい。親子とか兄弟の関係なんてほとんど海とか川とか。一緒に遊んで魚捕ったり。
義昭:日野川に鰻捕りは専門になるくらい。蒲焼はうまい。
順一:今でもおるはおるよ。だけど今は、日野川の皆生大橋から海の方が法律で定められた保護区域だけん。ここで草木から生き物1匹でも捕っちゃいけん事になっとるけん。だけん捕るんだがん(んです)。捕ったら警察に捕まることになったけん。我々が子どもの頃は、さほどお構いなしだけん。魚捕って遊んでね。大人もそれやあなるし(魚を捕っておられたし)、警察官までするだ。なんで悪いと思わんが。
義昭:毛蟹は捕るわ。
順一:毛蟹は捕るわね。
義昭:海は泳ぐこともできるし。
順一:家族とか友達の関係とか、ほとんどそう、海や川で培った絆を結んじょうだけん。親父と一緒にあそこで泳いだなとか、魚捕りしたなとか、弟連れて日野川でカニ捕って遊んだな、妹に籠持ちさせたな、なんてことない思い出いっぱいある。やっぱり故郷だけん。皆生は一番大事だけんな。
2022年8月2日 聞き手:磯崎つばさ
2022年12月29日 聞き手:水田美世
1.日常記憶地図は、「よく行く場所」「よく歩く道」を地図にマッピングすることで、個人の日常や記憶、愛着を取り出し、アーカイブすると同時に、その土地の特性や歴史を垣間見ることができる手法です。この連載は、2019年8月から12月に掛けて実施した連続講座「日常記憶地図ー子どもの頃の場所と風景を思い出すー」で参加者が綴ったテキストを順次紹介します。(参考:https://totto-ri.net/news_mylifemap2019/)
2.引揚者:第二次世界大戦後、日本の当時の外地や占領地などの国外から帰国してきた人
3.戦後の住宅不足を解消するため、米子市では1960-70年代に市営住宅が多く建設されている。平屋や2階建ての多い時期であった。
4.大正末ごろから砂浜で競馬が行われていたが、皆生競馬場は1929(昭和4)年に完成した。1937(昭和12)年頃まで競馬が開催され、戦争で中断、戦後は2回だけ開催された。馬のための温泉も付属していた。義昭さんは1948(昭和23)年に友人の父親に最後の競馬を見に連れていってもらったとのことである。
5.皆生漁港は皆生温泉地域の西側、自衛隊駐屯地はさらに西側に位置する。
6.日中戦争の始まった1937(昭和12)年に陸軍の保養所が開設され、1938(昭和13)年に姫路陸軍病院臨時皆生分院が皆生東部の海岸に開設された。戦後は国立病院となり、昭和46年に移転し米子医療センターとなる。また、多くの傷病者が皆生温泉の各旅館に分宿した。
7.三柳の飛行場は見通しがよく、攻撃を防ぐため飛行機を松林に隠して修理した。飛行場から皆生通りを押して運んでいた。参考:藤田収康氏の伝承「皆生温泉ふるさと伝承」
8.皆生温泉は、大正時代に京都を参考に東から一条、二条、三条と通りを定め、碁盤の目状の温泉街としてつくられた。
9.戦時中の労働力不足のため、生徒や学生を軍需や農業に従事させること
10.昭和30年代の藤田商店(皆生で一番古い駄菓子屋)ではボウフウ煎餅や「吐月堂」の饅頭を販売していたようである。参考:藤田収康氏の伝承「皆生温泉ふるさと伝承」
11.日本パルプ工業は1952(昭和27)年に米子工場を新設、1979(昭和54)年に王子製紙に合併された。
12.温泉クラブは、1936(昭和11)年より温泉大浴場、食堂、売店、集会場などの総合娯楽センターとして営業。1945(昭和20)年に進駐軍のダンスホールとなり、その後ダンスホールとして営業するが、1950(昭和25)年に温泉クラブとして再開する。
13.「カバヤ文庫」は、岡山に本社を置くカバヤ食品(株)が、1952(昭和27)年から1954(昭和29)年にかけて毎週のように発行した児童文学シリーズ。10円のキャラメルに入っている文庫券を集めて送ると本がもらえる仕組みであった。
14.義昭さんは『ロビンソン漂流記(ロビンソンクルーソー)』、『巌窟王(モンテクリストの復讐)』、『レ・ミゼラブル(ああ、無常)』、『アリババと40人の盗賊』、『トム・ソーヤーの冒険』、『ノートルダムの怪人』など男の子向けの本を中心に集めたとのこと。
15.進駐軍は、昭和20(1945)年10月に鳥取へ約200名、11月に米子に160名進駐した。
写真提供
※1 米子史編さん資料 ※2 米子市立山陰歴史館 ※3 米子市立図書館 ※4 皆生温泉観光株式会社 ※5 鳥取県立公文書館
※この記事は、皆生温泉エリア経営実行委員会が2022年8月2日に実施した「日常記憶地図 皆生編」のワークショップで参加された方の語りをベースに、追加ヒアリングを行っい再構成しています。また、実施にあたっては令和4年度鳥取県アートによる地域活性化促進事業補助金を活用して作成しました。
冊子『日常記憶地図 皆生 1940s-2022』刊行
2022年に鳥取県米子市の皆生で行ったプロジェクト「日常記憶地図 皆生編」が冊子になりました。参加したのは皆生に暮らすなど日常的にこの場所に関わりを持ってきた10代から80代までの計13名。幼少期から成人前までに過ごした遊び場や通っていた道などの記憶について語られたことを記録したものです。2023年3月12日(日)にイベント「ぐるぐるかいけ」で配布の他、希望者には送料のみの負担で送付可能とのこと。
発行日:2023年2月28日(予定)
発行元:ちいさいおうち
発行部数:1300部
仕様:A4サイズ、44ページ、表紙カラー、本文モノクロ
値段:無料
問合せ:chisaiouchi@gmail.com / 090-2409-7984(水田)