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2017.5.24

読んで話そう『中原中也詩集』:本棚帰郷・番外編

ここにしかないアート&カルチャーの今を追うレビュー。鳥取で日々動き変化する場所や人々の姿を、丁寧に記録し蓄積していきます。
今回は、先日4月30日、鳥取市のコワーキングスペース「ことめや」にて開催された「読んで話そう『中原中也詩集』:本棚帰郷・番外編」の様子についてのレビュー。本誌「トット」でのコラム連載から生まれた企画で、今後も展開が楽しみな内容でした。


鳥取の文化・芸術をつなぐウェブメディアとして「トット」は始まりました。それはウェブ上の存在ではあるけれど、実際に鳥取で暮らす人々の生活をより楽しく、よいものにするためのものでもあるはずです。だから単なるウェブ上の記事としてでなく、鳥取に住む人々と関わりながら、本棚帰郷のページを作り上げていきたい。そういう思いからこの企画は立ち上げられました。

会の内容としては、nashinoki がコラムで取り上げた『中原中也詩集』について、鳥取の人とともにそれを読むというものでした。最初にまず詩人のプロフィールが紹介され、中也の生涯を振り返ります。そうすると、その三十年という短い人生の中で、恋人長谷川泰子との別れ、二人の弟の死、そしてわが子の死と、喪失の連続の人生を送ったことがわかります。そのような「喪失」の人生から生まれた詩に、どうして読む者は魅力を感じるのか。それを大きな問いとして、それについて考えるため、参加者が今回「帰郷」をどんな風に読み、さらにふだん詩(あるいは言葉)とどうかかわっているかということについて話し合いました。

その後それを踏まえて、故郷というテーマに関連する中也の詩のいくつかをいっしょに読みました。今回選んだのは「泣くな心」「無題(58号の電車で女郎買に行った男が)」「帰郷」「一つのメルヘン」「別離」の五つ。「帰郷」についてnashinokiは、その描写に故郷の風景を見ていたわけですが、それは人によって受け取り方がちがうようで、新潟市出身のSさんと広島市出身のHさんは、故郷の風景は広い平野や大きな川、あるいは都市だったりして、この詩の中の風景と異なるけれど、鳥取に来てみると、「帰郷」に描かれているような風景はたしかにわかると言い、また神戸市出身のSさんは、阪神淡路大震災で今はもう実家はないことを語られ、しかし描かれている風景は特定のものだけれど、それを通じて、故郷に触れた時に誰しもが感じる普遍的な感情を、この風景を通じて感じることができるのではないかと述べました。

他の詩について全て紹介すると長くなってしまうので、ここではもうひとつ、「一つのメルヘン」についてだけ紹介したいと思います。

「一つのメルヘン」

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで珪石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

この詩は、中也が長男文也を亡くした直後の1935年に発表されたものです(その後詩集『在りし日の歌』に収録)。川があるのだけれど、そこには小石ばかりで、「さらさらと」陽の光が射している。最後の部分では水が流れています。河原の風景は中也の故郷の風景のようでもあり、この世ではない景色のようにも感じられます。ところでこの詩の中盤に蝶が登場しますが、なぜここで蝶が現れるのでしょう。この点が不思議だったので、会でその疑問を述べたところ、参加者のYさんが、地歌(江戸時代初期以来京都、大坂、名古屋を中心として、おもに関西で行われ、盲人の職業的演奏家、作曲家が伝承してきた三味線歌曲)の歌詞に蝶がよく出てきて、その蝶は、恋人や旅人などどこかへ去ってしまう人を表したり、そういう場面での人の思いを表すということを教えてくれました。前半の非現実的な世界に、ある人が登場し、影を落とし、去っていく。それが、世界を彼岸的なものから現実へと戻す。だからこの詩では、場面転換の際に蝶が必要だったのです。Yさんの発言をヒントにみんなで詩の印象を話し合っているうちに、そういう構造がはっきり浮かび上がってきました。

今回詩について複数の人で読みながら話すうちに、こんな風にどんどん詩の見方が変わったり、謎が解けていくという経験をしました。会に参加されたMさんに、後でこんな話を聞きました。Mさんは以前から対話型の作品鑑賞に興味があって、工芸や絵画、現代美術などの作品でそれを試していたそうです。最初は何の情報もない中で作品に向き合って勝手にいろいろ言い合い、情報がないので参加者は必然的に、自分の思い出や経験してきたこと、現在の社会情勢などに引き寄せて話していく。でもその過程で、参加者はかなり作品の核心に近づいていくのだそうです。今回の会で経験したことも、これと全く同じプロセスでした。

各々の経験を語るとき、その人の生きてきた厚みがその場に現れます。それを作品に投げかけると、作品からまた、そこに作家が込めた生きた時間が浮かび上がってくる。その時わたしたちは、自分ではない何かとつながっています。そしてその作業を、同じ時代を生きる人々と共有する。それは、とても楽しい時間でした。それぞれの考えを持ち出し、もちろん全ての点で一致が見られるわけではないけれど、みんなであれこれ言っているうちに、全然知らなかった場所に抜け出ている。そこにはいくらかの達成感と、爽快さがありました。

共有ということの可能性をもっと試してみたい、そう思わせられた時間でした。一緒に詩を読んでくれた皆さん、ありがとうございました。

文:前田雅彦 写真:トット編集部


参考
トット連載コラム「本棚帰郷ー鳥取を離れて」/nashinoki

#1 喪失の、その外へ『中原中也詩集』

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