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2018.11.17

田口あゆみ
気配のかたち
#1 “見える”映像から“見えない”映像へ

失明し、米子に帰って7年。いまも光と影、全ての色やかたちに強く焦がれている。ここ数年はカメラを回して作品を作ることも。見えないのにどうして映像なのか、確認できないヴィジョンは本人にはどんな意味を持つのか? 視覚喪失後の世界で撮り続けて変わること/思うことを書いていきます。


視力を失って7年が経つ。私の場合、急性緑内障を発症して数年で見えなくなったのでいまだに“見える”感覚と視覚体験が残っている。失明しかけていた時期、見えなくなると世界は暗転して何もなくなってしまうような気がしていたけれど実際は全然違った。もちろん見えなくなってしまったので外部からの視覚情報が更新されることはないけれど、目が覚めているときはいつも私の中に映像がある。

これは無意識に頭の中にあるもので、どうやら“見えない”世界に未熟な私が音やにおい、空気の動きや触覚、他人のことばなどから得る手がかりを、使い慣れた視覚イメージに自動的に還元しているらしい。見えていたときに音やにおいが視覚イメージとつながっていれば、その手がかりは勝手に像を結ぶ。例えば想像してほしい。嵐のとき、目を閉じていても雨粒が地面を打つ音、濡れた土やアスファルトの匂い、湿気を含んだ空気から簡単に外の様子が目に浮かぶはず。逆にことばだけでも像と感覚が浮かんでくるだろう。これがいつも私の中で行われている。

“見えない”人といっても、現在の見え方や過去の視覚体験の有無、体験によって外の世界へのアクセス方法は様々。視覚体験を持たない人が、音や温もり、触覚がそのまま記憶となると言っていて、自分の想像もつかない感覚に驚いた。また、私と同様に中途で見えなくなった人は、失明前にフィギュアスケートをしており、スケート靴の刃音からどんな体勢か、これからどんな技を決めようとしているのかが分かるらしい。

風の音、波の音、石がココ、ココ、ココとぶつかり合う音の中にある場所。音が詰まった写真。筆者の映像作品より抜粋。

内部映像として情報を処理するというと不思議に思われるかもしれない。さっき挙げた手がかりは、どう考えてもごく一部の情報でしかなく、360度の世界を作るにはずいぶん不足しているから。それを補うのはどうやら個人の経験記憶と想像力。だからフィギュアスケートと聞いて私が思い浮かべるのは、テレビで見たオリンピックのような観客が詰めかけた舞台で華やかな衣装をつけた選手がひとりで演技しているものだし、音の情報はほとんど手がかりとして利用されない。頭の中のテレビカメラが全身を大きく捉えるアップになるくらい。見た記憶のある人や場所はそれに沿って、見たことのないものは私の想像力に色やかたち、質感を与えられて存在する。限界なのか好みなのか、失明後に出会った人はみなある程度好ましい外見を持っている。

私が新鮮で少し奇妙に感じるのは内部映像の性質。目で見て確認することが出来ないからか、僅かな手がかりの追加や投げられたことばのイメージで自在にかたちを変えるのだ。画面が切り替わるように全てが一新されるのではなく生き物のようにぬるりと滑らかに変化する。

すごく面白いけれど、これから追加されない映像記憶はどんどん遠く薄くなっていくだろうと考えると少しさみしい。それとも常識の枠を超えて音や感触、においや味までを含んだ未知のものへと進化する? まだまだ映像を楽しみたいから面白くなってくれるといいのだけれど。

ライター
田口あゆみ

田口あゆみ

米子生まれの米子育ち。東京で編集の仕事をしていたが目を病んだことをきっかけに帰郷。人と機会に恵まれて自分で映像を作り新しい喜びに気付く。障害を得たせいか米子というコミュニティの特徴なのか、人との関わり方が以前と全然変わって面白い。出会いに感謝しつつ新しい視点の楽しさを伝えられたら、と模索中。

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