本棚帰郷 ―鳥取を離れて #11
『The Seed of Hope in the Heart』(3)

自分にとって大事な場所、しかしそこに自分はもういない、そんな矛盾―
鳥取出身、京都在住のnashinokiさんが1冊の本や作品を通して故郷の鳥取を考える連載コラム。東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市で種屋を営む佐藤貞一さんが、母語ではない英語で書き続ける本『The Seed of Hope in the Heart』を取り上げる3回目。


沿岸に見た一本松
前回の記事で書いたように、津波の数日後、市街地へ戻ってきた佐藤さんは、破壊された街を見て涙を流した。街だけでなく沿岸の松原も、津波で荒廃し砂の荒地となっていた。震災前、そこには約7万本、2kmにも及ぶ松林が広がっていた。

その時、不意に佐藤さんの目に入ったものがあった。上の写真中央、やがて「奇跡の一本松」と呼ばれることになる、津波に耐えて生き残った一本の松だ(1)。一本松は、霞がかった中、佐藤さんにはまるで幻か亡霊のように見えたという。

はっきりその輪郭を浮かび上がらせ、荒廃した沿岸に、その樹はしっかりと立っていた。私は津波の怪物の侵略による暗闇に、一筋の光を見つけたように感じた。「ああ、私たちにはまだ希望がある」。 (2)

佐藤さんはこの、津波に負けず、困難に打ち克った一本松の姿に、生き残った者の精神、不屈の精神(Never Say-Die spirit)を見出す。それを「新しい武士道」 (3)とも「気仙魂」(4)とも呼び、引き継ごうとする。

スペインに残る津波の記録
震災後、佐藤さんは陸前高田の過去の歴史について調べ始める。本書の第一部では主に2011年3月11日当日のことと津波の被害、それによって亡くなった人々のことが書かれていた。それに対し第二部では、津波の後の陸前高田のことが書かれている。そこで佐藤さんがしていることの多くは、この土地の過去の歴史を調べることだ。どうして佐藤さんはそんなことを始めたのだろう。

津波の後、私は津波の怪物にとても悔やんでいて、なぜこのような悲劇が起こったのか、何とかして知りたいと思った。市の図書館は津波で流されていた。すべての歴史的文書が消え去っていた。街の書店はすべて破壊された。インターネットだけが唯一頼れる道具だった。私は何かに取り憑かれたように、過去の津波のデータを調べた。そして、かなり昔、ここには大きな津波があったことを知った。これは注目に値することだ。仙台管区気象台のデータ (5)によれば、1611年の慶長三陸津波で、50人の人が亡くなっていた。(6)

震災後佐藤さんは、主にインターネットを使って津波のことを調べ始める。2011年の地震と津波は発生直後、「1000年に一度」と言われることがあった(7)。けれど佐藤さんはその説を疑った。佐藤さんが知った情報によれば、1611年の慶長年間にも、2011年に近い規模の津波が、陸前高田を襲っていたからだ。

さらに調べると、その1611年の津波を目撃し、記録していた人物がいた。その人は、遠く離れた海の向こう、スペインからやってきた、セバスティアン・ビスカイノ(1548-1615)という探検家だ。彼は1611年の慶長三陸津波に遭遇し、陸前高田の今泉地区で50人が亡くなったと記録に書き残している。ビスカイノは1611年から1613年にかけて、昔この地区にあった金鉱を目指してやってきた。そして1613年の慶長遣欧使節で、支倉常長(8)と共にスペインに帰国している。彼の残した日本についての記録がスペインには残った。佐藤さんは、その記録にたどり着いたのだ。

ビスカイノをめぐっては、不思議な偶然が起こっている。震災の11ヶ月後、スペインのエル・パイスという新聞の記者が佐藤さんにインタビューをしに訪れる。佐藤さんはちょうどビスカイノについて書こうとしていたところで、彼にそのことを訊ねる。さらに彼が去った後、突然店の電話が鳴り、出てみるとスペインのバルセロナからだった。相手はスペインに住む日本人の女性で、佐藤さんの本をスペイン語に翻訳したいという。彼女は記者とは関係ない人だったが、同じ日に電話をかけてきた。このような不思議な出来事に、佐藤さんは震災後、何度も遭遇しているという。(9)

津波の記録が失われた理由
遠く離れた海の向こうには昔の津波の記録が残っていたのに、どうして地元である陸前高田では、それが伝えられなかったのだろう。佐藤さんはそう考えた。その理由はいくつか考えられる。一つには、2011年のように繰り返される津波で、歴史的資料が流され失われてしまったということ。三陸沿岸には、歴史を通じて繰り返し津波が襲っている(10)

もう一つは、東北地方の歴史に関係する。東北は、歴史的に中央政府に対して敗れ続けてきた。「東北は文化的に重要でない地域とみなされ、長きにわたり、中央政府によって高圧的な仕方で扱われてきた。度重なる戦で、敵に古い資料は燃やされ、少なくない文化が不自然な死を遂げた。だから私たちの地域では、記録がほとんど残っていない」(11)

またそのように辺境とみなされたが故に、中央から知識人が入ってくることも少なかった。地元にも、机上の学問より「気仙大工」など職人が尊ばれる風土があったため、作家や学者など記録を残すような人は少なかった。佐藤さん自身もそのような教育を受け、2011年の震災まではそう考えていた。しかし震災後考えが変わり、後世のためにこの本を書いている。

樹齢を正確に調べる
佐藤さんはさらに、慶長三陸津波について調べるため、実際に足を運び、陸前高田の土地や自然を調べている。

外国人の記述とはいえ、ビスカイノの報告は震災前からすでに日本で翻訳され伝えられていた。ところが2011年以前、それは一定の研究者には真剣に受け止められていなかった。学者の中にはビスカイノの記述を曖昧と捉え、その記録の信憑性を疑う人がおり、震災直後にもその見解を保持したままの研究者もいた。しかし被災者として佐藤さんは、ビスカイノの記録を信じるようになった。東北大学災害科学国際研究所の蝦名裕一氏らの研究によれば、「ビスカイノ報告」が疑われた理由は、スペイン語からの古い翻訳の不正確さの問題や、研究者の解釈の不徹底などに原因があるという(12)。「曖昧」と受け止められたビスカイノの記録は信じられず、2011年以前、災害防止に役立てられる機会も奪われてしまった。だとすれば、後世に役立つ記録を残すためには、それはできる限り正確なものでなければならない。佐藤さんはそう考えたのではないだろうか。

先述した陸前高田市の今泉地区の北、海岸から1.5km、海抜4-5mの地点には、天神大杉という杉の大木が立っており、その樹齢は550年、あるいは800年、1000年とも言われていた。2011年の津波から2年後、佐藤さんはこの大杉の樹齢を正確に調べようと試みる。震災後の木々の様子を見てきた限り、杉は浸水に弱くすぐ枯れるので、その樹齢が550年以上であるとすれば、1611年の津波はここまで及んでいなかったことになる。だがここに植えられてから400年に満たなければ、天神大杉が植えられる前に津波がここまで来ていたと考えることができ、1611年の津波が今泉地区に来たという記述が信頼しうると証明できる。それらを明らかにすることは、津波の規模の推定に役立つ。

震災後の天神大杉(『The Seed of Hope in the Heart』第5版、25頁)

佐藤さんはまず、陸前高田市に隣接する沿岸から30kmの住田町にある「八幡様のご神木」と比較することで、天神大杉の樹齢を調べようとする。この木は植えられたのが1602年と記録され、そこに苗木の年齢2〜6年も考慮すると、樹齢は約412年であることがはっきりしていた。天神大杉の幹の円周は八幡様のご神木の88.9%だったことから、佐藤さんは天神大杉の樹齢を約366年と計算し、そこから植えられた時の苗木の年齢を除し、さらに生育状況の違いも考慮して、天神大杉は植えられてから360±40年だと推定する。他方、津波で被害にあい伐採された杉の断面も測定し、そこからも天神大杉は樹齢400年以下だろうと推測する。

そして、この推定の当否がはっきりする時が来る。2016年1月24日、2011年の津波で浸水し枯れてしまった天神大杉が切り倒されたのだ。佐藤さんはそのことを小森はるか監督を通して知り、薄明の中、その樹齢を確かめに行く。「私の心臓は激しく打った。ああ、私は待っていた、長く待っていた」。

その杉の木はすでにチェーンソーで切り倒されていた。私はその幹の断面を容易に見て取ることができた。だが、幹の中心は空洞(うろ)だった。地元の人の何人かは、「うろには数百年の年輪がぎっしりと詰められていたんだ。ああ、やはりご神木だ」と言っていた。しかし私はそうは考えなかった。それを客観的に捉えたのだ。たね屋の見方からすれば、それは謎に包まれてなどいない。古い杉の木のうろは珍しいことではない。幹の中心の細胞が不用になり、年を重ねるとともに空洞化が起こる時、それを古い日本の言い方で「古木のす入り」と言う。私は何度もなんども、はっきりした断面を注意深く見た。(13)

佐藤さんは、幹の中心ほど年輪の幅が広いという法則を用い、空洞の部分も含めての全体の年輪を数え、樹齢は約380年だと結論づけた。最初の推定は間違っていなかったことになる。佐藤さんはできるかぎり客観的に、正確に自然を見、調べている。こうして天神大杉は樹齢400年以下だったとわかったことから、この地域は1611年の津波に襲われ、その後に天神大杉が植えられたのだと結論づける。

〈続く〉


1.この写真は、筆者が2012年の夏に陸前高田を訪れた際に撮影した。一本松はその後、枯死したため伐り倒され、多額の費用をかけてモニュメントとして加工された。
2.p.95
3. 佐藤さんは一本松に、奥州(現在の岩手県)で源義経を守って死んだといわれる、武蔵坊弁慶の姿を重ねている(p.107~)。
4.陸前高田市と大船渡市と住田町を合わせた地域が、気仙地方と呼ばれる。「気仙魂」という佐藤さんの言葉は、この土地に生きる人、津波で亡くなった人、また先祖たちの精神を表している。
5.仙台管区気象台ウェブページ(http://www.jma-net.go.jp/sendai/jishin-kazan/higai.htm)参照。
6.p.22
7.被害の大きかった869年の貞観地震津波を起点として、こう呼ばれている。
8.江戸時代初期、伊達政宗に仕え、その命により慶長遣欧使節としてスペイン・ローマを訪れた仙台藩士。スペインで受洗している。
9.その後スペイン語版の『The Seed of Hope in the Heart』が出版され、また2016年には感謝の思いとメッセージを伝えるため、佐藤さんはスペインを訪れ、スペイン語でスピーチを行っている。
10.吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫、2004年)。佐藤さんの調査によれば、明治29年の津波も三陸沿岸に大きな被害をもたらしたが、少なくとも陸前高田市に関しては、2011年の被害の方が大きかったという。
11.p.127-128. 東北出身者が受けてきた差別的経験についても、佐藤さんは本書で伝えている。
12.蝦名裕一、高橋裕史「『ビスカイノ報告』における1611年慶長奥州地震津波の記述について」(「歴史地震」第29号、2014年)この論文は以下で閲覧できる。http://www.histeq.jp/kaishi_29/HE29_195_207_Ebina.pdf
13.p.28. とはいえ佐藤さんは、天神大杉の信仰を否定しているわけではない。その重要性は認めたうえで、ここでは津波について調べるため、実証的な姿勢に徹している。


 今回の本 『The Seed of Hope in the Heart』5th edition
著:Teiichi Sato(佐藤貞一)
発行:2017年

ライター

nashinoki

1983年、鳥取市河原町出身。鳥取、京都、水俣といった複数の土地を行き来しながら、他者や風景とのかかわりの中で、時にその表面の奥にのぞく哲学的なモチーフに惹かれ、言葉にすることで考えている。